「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と、かのマリーアントワネットが言ったとか、言わないとか。
当時は農民の激しい反発を招いたとされるこのセリフが「まあ、それもそうか」で済みかねない飽食の国、現代の日本で、かれこれ10年以上、1日3食を365日、ほぼ欠かさずパンを食べ続けている女性がいるというんです。その名を、福地寧子(ふくちあやこ)さん。
確かに、美味しいパンは美味しい。けれども1日3食というのは並大抵ではありません。それだけの偏愛の持ち主とは一体どんな人物なのか。そしてそうも人を虜にするパンの魅力とは?
毎回、手作りパンの写真で文末を締めるほっこりパンブログ「手の中で膨らむ」を書いている私、紫原明子が、福地さんがおすすめする恵比寿のパン屋さん「CROSSROAD BAKERY」で今回たっぷりとお話を伺ってきました。
▲今回取材にご協力いただいた渋谷区恵比寿の「CROSSROAD BAKERY」。パン職人がイチから焼き上げる多彩なパンと、バリスタが淹れるこだわりのコーヒーを求めて連日お客さんで賑わう。
- クロスロードベーカリー
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東京都 渋谷区 恵比寿西
パン屋
パンには味噌汁、炊飯器もありません
紫原:今日はよろしくお願いします。早速ですが、福地さんは1日3食パンを食べていらっしゃるとか。……こんなことを言うのも何ですが、本当ですか?
福地:本当です!
紫原:本当に? いや、私もパンは好きで、自分でも焼いたり、パンブログを買いたりもしているんですが、1日3食、全部パンというのはちょっと……飽きません?
福地:飽きないですねえ。パンって甘いものから、塩気の効いたもの、シンプルなものまで、色んな種類があるじゃないですか。
紫原:それは確かにそうですが、福地さん、お米は食べないんですか?
福地:家では食べませんね。家に炊飯器がないんです。ご飯を食べるくらいならパンを食べたいし。
紫原:ということは、自炊されるときは全部洋食ですか?
福地:いえ、お味噌汁を作ったりしますよ。お味噌汁を飲んでから、冷凍しているパンを焼いて食べます。
紫原:お味噌汁でもパン!? 正直、少しはご飯を食べたくなりません?
福地:それが、ならないんですよねえ。でも嫌いなわけじゃなくって、外食ではご飯を食べることもありますよ。お寿司とか好きですし。でも、どんなにお腹いっぱいで帰ってきても、家に帰るとやっぱり何となく落ち着かないのでパンを食べます。それでやっとホッとするんです。
紫原:なるほど。それでは、リラックスしてお話していただくためにも、まずはパンを食べましょう。
▲CROSSROAD BAKERYのパンを選ぶ福地さんと紫原
▲この日選んだパン。顔がついているものはこの店のマスコットキャラクター「ブリオッシュ君」。
▲CROSSROAD BAKERYの人気メニュー「ニューイングランドクラムチャウダー」。
紫原:さて、福地さんのお宅には、パンはお家にいつも常備されてるんですか?
福地:そうですね。いろんなパン屋さんに行って買ってきたパンを冷凍庫に保管してます。
紫原:パン屋さんをまわるために、旅行にもよく行かれるとか。
福地:はい。パン仲間とよく出かけます。最近は大阪・京都に行って、2日間で17軒のパン屋さんを巡りましたね。
紫原:17軒も!
福地:はい。いつも、買ったパンを持ち帰るための、パン専用のスーツケースを持って行きます。買い方にも頭を使うんですよ。初めのほうで買うパンはスーツケースの底の方に入るので、潰れないようにハード系のパンを買うようにします。逆に、旅の終わりのほうで回る店では、ふんわり軽いパンを買うようにしますね。いいお店に出会うと、ついたくさんの種類を買いたくなっちゃうんですけど、そうするとお金も続かないし、冷凍庫もいっぱいになっちゃうんで、1軒あたり3個まで、というルールを自分で作ってます。
紫原:でも、せっかく来たんだしどうしても3個以上欲しいと思うことってないですか?
福地:ありますよ! 4個以上買いたいときは、その場で食べきれるならオッケーと決めてます。
入った瞬間「すみませんでした!!!」と唸らされた、カトウパン
紫原:日本中のパンを食べてこられた福地さんが、特に印象に残っているパンはありますか?
福地:そうですねえ、沢山ありますが強いて言えば、松戸にある「カトウパン」というお店のリュスティックですかね。
- カトウパン
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千葉県 松戸市 日暮
パン屋
紫原:カトウパン、初めて聞きました。なんというか、素朴な店名ですね?
福地:そう、そうなんですよ! ブーランジェリー◯◯とか、◯◯ベーカリー全盛の今の時代に、カトウパンなんですよ!名前から既にこの店の良さが現れてると思うんですよね!
紫原:おお……福地さん、急に熱いです!
福地:実は私、昔このカトウパンの近くに住んでたんですよ。でも正直、店構えも今風とは程遠い感じで。前を通る度に「ここは、まあ……いいか」と、長いことスルーしてたんです。でもあるとき、商店街が作るPRの冊子にカトウパンが出していた広告を見つけまして。
紫原:それは、どんな広告だったんですか?
福地:すごく控えめなんです。広告って普通、ドーンと名物を押し出したり、「大人気!」とか「絶品!」とか書いてあったりするじゃないですか。ところがカトウパンは、店名と、その下に一言「ついでに寄ってってネ」と書いてあるだけ。
紫原:謙虚ですね(笑)。
福地:そうなんですよ! その控えめなところに妙に惹かれたのもあって、まあ1回くらい入っておくかっていう、今思えばすごく横柄な気持ちでお店に入ったんですけども……。入った瞬間、もう“すみませんでしたっっ!!!”っていう気持ちになりましたね。
紫原:えっ、どういうことですか?
福地:どのパンもとにかく成形が綺麗。仕事がとても丁寧だったんです。特に目を引いたのがリュスティックですね。リュスティックというのは、成形しないで焼くフランスパンのことなんですが、カトウパンではそれを「ルスティック」という名前で売っていたんですよ。こういうところもまたぐっときちゃいません? 「ルスティック」ですよ、「ルスティック」。 控えめで真面目な職人さんの顔が、目に浮かんでくるようじゃないですか!?
紫原:え、ええ……そうですね。(押しが強い、、、)
パンを見た目で美味しさがわかる
紫原:肝心な「ルスティック」の味はどうだったんでしょう?
福地:そりゃもう、当然のように美味しいんです。感動しました。切った断面はややクリーム色がかっていて、つやつや。セオリー通りの美しさでした。色々なパン屋さんを訪れてきましたけど、あれだけ良い意味で裏切られた体験って、ほかにはないですね。
▲カトウパンへの熱い思いを語る福地さん。
紫原:……あの、ちょっと気になったんですが、福地さんはパンを見ただけで、美味しいか美味しくないかがわかるんですか?
福地:はい、大体分かります。
紫原:え、すごい。ちょっと鳥肌が立ちました。どうやって見分けるんでしょうか? さっきのお話だと、見た目のいいパンが美味しいということですか?
福地:ふふふ。実はそうとも言えないんですよ。あるパン職人さんがこんなことを言いました。「綺麗なパン全てが美味しいわけではないが、美味しいパンは絶対に美しい」
紫原:ふ、深い。
福地:そうなんです。美しくても、味がイマイチというパンも、残念ながらあるんです。特にネット通販だと写真はいくらでも加工できますしね、写真で見抜くのは結構大変です。私も、最近になってやっとハズさなくなってきました。
紫原:加工された写真すら見抜けるんですか! もはや特殊能力者ですね。
福地:去年、ネット通販で見つけて大当たりだったお店は、掛川のポワポワというパン屋さんです。以前、パン仲間達とやる忘年会の景品として、ここのパンを用意したんですが、パン通の方々にも美味しいと大好評でした。
- POWAPOWA
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静岡県 掛川市 初馬
パン屋
パンにハマる人が一度は通る「バケット期」
紫原:実は私は以前、パンを作るほうにどハマりしたことがあるんです。どんなに忙しい日にも、1日1回以上、粉からパンをこねて焼き上げないと気が済まなくなってしまって。
福地:へ〜。一般的に、パン作りにハマるのは段階的に後のほうなんですけど、珍しいですね。
紫原:段階的に後の方?
福地:ええ。パンにハマる人がたどる段階があると思うんですよ。まず入り口は、お母さんが出すパンや、給食のパンのように、人から与えられたパンを黙って食べるところ。次に、甘い菓子パンやサンドイッチのような惣菜パンを、自分で選んで買うようになりますね。そこからさらに一歩進むと、今度は自分の好きなパンに、自分の好きなおかずを乗せて食べたいという欲が出てくる。この食パンに、このソーセージが乗ってるといいな、というような、組み合わせ方の妙といいますか。
紫原:なるほどなるほど。
福地:ここからさらに、より美味しいパンでサンドしてみたい、より色々な種類のパンで試してみたい、というようなこだわりが出てきます。このあたりで、いよいよやってくるのが、俗に言うバケット期ですね。
紫原:バケット期とは!?
福地:バケットをバッグからはみ出させてオシャレな街を歩く、そんな自分が好き!という、ちょっと尖りたい時期です。
紫原:あ、それ、わかります(笑)。ファッションとしてのパンですね。
福地:そうです。で、このバケット期を更に超えると、もっといろんなパンを食べたい、知りたい、もしくは作ってみたい、というような広く深い探求心が芽生えてくると思うんですよ。
紫原:なるほど! 面白いですね。それってかなり普遍的というか、パンに限らずあらゆる業界で言えることのような気もします。ファッションとしての“好き”を超えた先にこそ、真にマニアックな世界が広がっているという。福地さんにもバケット期があったんでしょうか?
福地:ずっと前にはあったような気もします(笑)。そこを経て、パン教室に通ったり、一時はOLを辞めてパン屋さんで働いたりもしました。今はまた事務職に戻っていますが、パンコーディネーターアドバンスという資格をもっているので、パンのセミナーで講師をやることもあります。
パンの食べ方、みんな違って、みんないい
紫原:ところで、最近のパンのトレンドというとやっぱり……。
福地:低糖質パンとか、おからパンですねえ。
紫原:ですよね。よく見かけるようになりましたね。福地さんから見ると、ああいうパンはやはり邪道ですよね?
福地:いえいえ、そんなことないですよ。個人的にあまり美味しいとは思いませんけど、邪道だとも思いません。むしろ、ダイエットしたい、糖質をセーブしたいのに、それでもパンを食べたいって思ってくれるのは嬉しいことですから。
紫原:へえ、そんな風にとらえていらっしゃるんですね。じゃあ、コンビニで売ってるようなパンについてはどう思います?
福地:コンビニのパンもとても重要です。安価で、しかも色々な種類があるので、子供から大人までたくさんの人が、いつでも手軽にパンを買えます。コンビニはパンの普及に一役も二役も買ってくれていると思います。ありがたいですねえ。
▲CROSSROAD BAKERYのマスコット「ブリオッシュ君」にナイフを入れる福地さん
紫原:あの、ちょっと意外だったんですけど、福地さんは「パンはこう食べるべき!」みたいなこだわりってあまりないんですね。一般的に、食にこだわりをお持ちの方って、食べ方や料理の仕方にも当然こだわりが強いというイメージがありました。
福地:うーん、そもそもパンって、ヨーロッパでもアジアでもアメリカ大陸でも、世界中、いろんなところで、いろんな食べ方で食べられてきたものですからね。こう食べるのが正解、なんてないんですよ。
紫原:なるほど、「みんな違って、みんないい」なんですね。
福地:はい。そもそも、パンって小麦からできてますよね? 小麦って、古くは1万年前から、世界中、色々な地域で育てられていました。実は、米より小麦の作物としての歴史の方が古いんですよ。ただ、小麦の粒はお米よりも柔らかくて、すぐに崩れてしまうので、石臼で挽いて粉にして、水で練って焼いてから食べるようになりました。これがパンの原型です。この後さらに古代エジプトで「発酵」という大発見があって、今のようなパンが出来上がっていったと言われています。
紫原:古代エジプトで! パンの歴史ってそんなにも壮大だったんですか。
福地:そうなんですよ。そんな長い歴史を経て、日本には戦国時代に、鉄砲とともに、フランシスコ・ザビエルが伝えたとされています。
紫原:歴史の教科書に出てきた人だ!
福地:そうです、種子島ですね。それ以来、日本のパンは独自の進化を遂げて、あんパンや、カレーパンといった、具を包むパンが誕生しました。
紫原:具を包むようなパンって、外国にはないんですか?
福地:ないこともないんですが、日本の場合は、それまで日本人が当たり前に食べていたお饅頭からヒントを得たんでしょう。そういう意味で、日本独自のものですね。ちなみにあんパンは、木村屋の創業者、木村安兵衛さんが考案しました。
- 銀座木村家 ベーカリー
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東京都 中央区 銀座
パン屋
紫原:考えてみると確かに、中国の花巻パンとか、インドのナンとか、世界中にいろんなパンがありますね。
福地:そうなんです。パンの歴史って人間の文明の歴史とも言われていて、世界のあらゆる人の生活と密接に関わっている。パンって、知れば知るほど奥深いものなんです。だから私は、どんな形であっても、まずはパンを食べて、“美味しいな”と思ってほしいんです。そこから“パンのことをもっと知りたいな”と思ってくれる人が増えると嬉しいですね。
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私たちが普段何気なく口にするパン。しかし、そんなパンがこの世に誕生するまでには、1人の職人さんの手仕事から、ひいては人類の文明の歩みまで、様々な物語が潜んでいました。
紀元前3000年頃に生きていた古代エジプト人も食べていたと思えば、いつもと同じパンでさえ、どこか一味違うものに感じられそうです。福地さん、ありがとうございました!