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危険なウマさの"デンジャーステーキ"に興奮!プロレス界のレジェンド・松永光弘が焼くステーキ屋へGO

ライター紹介

池田園子
池田園子
フリーの編集者/記者。女性向けメディア「DRESS」編集長。著書に離婚経験後に上梓した『はたらく人の結婚しない生き方』など。プロレスが好きで「DRESSプロレス部」を作りました。

各界に存在する、生ける伝説として語り継がれるレジェンドたち。

彼らに共通するのは偉業を成し遂げたのはもちろん、世界と、そして自らと戦いながら、結果を残し続けてきたこと。そして、人々の記憶に刻まれる存在になったこと、だと思います。

どうも、プロレス大好き人間兼ライターの池田園子です。

▲ジムでのトレーニングの様子

▲ジムでのトレーニングの様子

プロレス界にも数多くのレジェンドがいます。たとえば「デスマッチ界のレジェンド」といえば松永光弘さん。

プロレスにおける「デスマッチ」とは、ルールを危険度の高い内容に変更したり、特殊なリングを使用したりする試合形式を指します。とにかくクリエイティブな内容で、考える人に頭のやわらかさ、常識にとらわれない柔軟性が求められるジャンルだと思います。

筆者が初めてデスマッチを目にしたのは、2016年夏、大日本プロレスの大会だったと記憶しています。蛍光灯で殴り合う男たち――。背中には蛍光灯の破片がびっしり貼り付き、体や頭、額の一部から鮮血が流れ出ていました。いわゆる「蛍光灯デスマッチ」です。

リング上にハシゴを使って足場が設置され、リングからさらに数メートル高い場所で戦う「建築現場デスマッチ」を見たときも衝撃を受けました。デスマッチは、プロレスの技+流血やその他ダメージなど、一般のプロレスとは別種の痛みや刺激を伴います。

よく耐えられるな。怖くないのかな。なんて超人たちなんだろう。流血を目にして「美しい」と感じ、痛みや恐怖に立ち向かうデスマッチレスラーに敬意を持ち、デスマッチについて調べているうちに知ったのが松永さんでした。

プロレスに魅せられた筆者が、グルメ×プロレスをテーマに「戦う男メシ」を取り上げる本連載。現役プロレスラーや元プロレスラーが経営する飲食店を訪問し、「プロレスラーらしいがっつりメシ」をご紹介します。オーナー(または店長)である元プロレスラーへのミニ・インタビュー付きです。

それでは、第4回目のお店を紹介させていただきます!

プロレス界のレジェンドが焼いてくれるステーキ屋

今回訪れたのは、「ステーキハウス ミスターデンジャー」(立花本店)。現役時代に「ミスター・デンジャー」と呼ばれて人気を博した元レスラーで、冒頭でご紹介したデスマッチ界のレジェンド、松永光弘さんがオーナー兼店長を務める店です。

店は東武鉄道亀戸線、東あずま駅から歩いて3分ほどのところにあります。1997年、松永さんがレスラーとして脂が乗っていた時期にオープンし、今年で20周年を迎えました。

「1989年のデビューから鳴かず飛ばずの日々を過ごしてきましたが、1992年に転機があり(後述)、状況が好転しました。ただ、レスラー引退後の第二の人生を考えたとき、今のうちから備えておかないと、と思ったんです。自分の店を持つために、レスラーとして活動しながら、ステーキ屋で1年修行した時期もありました」(松永さん)

無事に店を開店してからも、二足のわらじ状態が続きます。某雑誌での「プロレスラーの副業」特集の取材を受けたとき、「ステーキ屋が本業でプロレスは趣味」と公言したという松永さんは現役時代、昼間に壮絶なデスマッチで戦った後、夜には店に立っていたといいます。

「店に立っていない日はほとんどありませんでした。当時はとにかく大変で、やるしかなかったし、今も周りが思うほど楽な仕事ではありません。従業員も10人ほどいますし、必死で店を切り盛りしていますよ」(松永さん)

いつ行っても、オーナーで店長の松永さんが、店に立って腕をふるっている――その安心感とステーキの美味さが評判を呼び、20年も店を続けてこられたのだと思います。

やわらかな赤身肉は幸せの象徴。6種類のソースで楽しみ方も自由自在

この日いただいたのは、デンジャーステーキ450g+スープ+ライスの「1ポンドセット」(2,500円、税込)。一番人気のメニューで、女性でもこれを選ぶ人はかなり多いそう。

熱々の鉄板に乗って登場したデンジャーステーキはふた口大サイズにカットされ、上にはバターの塊が。半分に切っていただくと、驚くほどやわらかく、噛んでいて幸せな肉です。肉汁がじゅわっと滲み出てきて、ごはんとの相性も最高。素晴らしい赤身肉。

最初は何もつけずに食べましたが、別の楽しみ方もあります。各テーブルに置かれた全6種類のソースをつけて味わうと、少なくとも6通り、各ソースを組み合わせると何十通りもの味わいを堪能できるんです。

筆者が一番好みかもと感じたのは「ごまみそ酢」。ステーキの上に乗ったバターと絡むと、和洋ミックスな感じで美味いんです。「青じそ」とあわせてさっぱりしたステーキを食すのも新鮮でした。

そのまま食すもよし、各種ソースで味を変えて食すもよし。とにかく1ポンド、450gを軽くぺろりと食べてしまう(白米は大盛り)くらい、美味しい肉なのでした。良質な筋肉になってくれるそうだな、と感じながら完食。

プロレスの話、多めです

今やデスマッチを志願して業界に入ってくるレスラーにとって、神のような存在と化した松永さんですが、自身はデビュー当時、とても苦労したと振り返ります。80年代は今よりもレスラーになれる人が少なかった時代でした。

「19歳のときにすべてのプロレス団体の入門試験を受けましたが全部不合格。23歳でデビューするまでに、牧場や溶接、道路清掃、食堂など、幅広い業種でアルバイトをしながらプロレスラーを目指していました」(松永さん)

1989年10月、大仁田厚さんが立ち上げたFMWの旗揚げ戦に、当時所属していた「誠心会館」の所属選手として参戦。プロレスVS空手という、史上初の異種格闘技タッグ戦でデビューします。

デスマッチへ進む契機となったのは、同じ年の12月10日、ジェリー・ブレネマン(現ジェリー・フリン)と組んで、大仁田厚・ターザン後藤組と日本初「有刺鉄線デスマッチ」の試合に出場したことでした。

「大仁田さんがリングのロープに有刺鉄線を巻いて試合をしよう、と記者会見で宣言したときは、怖いと思わなかったんですよね。どうせ飾りみたいなもんだろ、と思っていました。ところが、とんでもなかった(笑)。試合中、有刺鉄線を恐れずにロープにぶつかっていって、血を流している大仁田さんに衝撃を受けましたね」(松永さん)

数年後、デスマッチ界の中心に立つことになる松永さんが、プロレスファンに大きな衝撃を与えた日本初の有刺鉄線デスマッチのメンバーに入っていたのは、なんとも運命的な出来事だと思います。

失うものは何もない。6メートルの高さから飛んだ男は、伝説になった

それでも、デビューから3年近くは芽が出ることはなく、くすぶっていたと語る松永さん。転機が訪れたのは1992年2月9日。プロレスファンの聖地・後楽園ホールでの試合中、対戦相手をめがけて2階バルコニー席からダイブしたことは、今もファンの間で語り継がれる伝説です。

普通に考えると「そこから飛べますか!?」と震えてしまう、6メートルを超える高さからのジャンプ。後楽園ホールでその位置から飛んだ初めての人物が松永さんでした。その日から「ミスター・デンジャー」と呼ばれるようになります。

「何をしても日の目を見なかったんです。膝を怪我してアルバイトもできず、トレーニングも上半身しかできない時期もありました。一文無しに近い状態で、失うものは何もなかった。それでもくじけなかったのは、絶対に諦めないと決めて、自分がなりたい姿を鮮明に描いていたから。どん底時代、100万円くらいローンを組んで、成功法則を学んで実行したんです。

当時はハングリー精神の塊みたいなもので、あのとき後楽園ホールのバルコニーから飛んだことで、周りが僕を見る目が一気に変わりました。プロレス記者にも『試合中チャンスがあれば飛び降ります。写真に撮ってください』と伝えていたくらい(笑)。運命を変えたジャンプでしたね」(松永さん)

以降はデスマッチというジャンルを過激化させていったW★INGプロモーション、FMW、大日本プロレスと、活躍の場を移していった松永さん。一番つらかったデスマッチを挙げてもらうと、「故・ミスター・ポーゴとのスクランブル・パンクハウス・デスマッチ」と返ってきました。

「ポーゴさんが口から火を噴くんですよ。それで頭を燃やされたのが一番痛かったですね。“頭が炎上”っていう衝撃的な絵ですから、W★ING人気に火がついて、僕自身もファン投票でいきなり4位になったくらい。インパクトがあったんでしょうね」(松永さん)
 
建築現場にサソリサボテン、ピラニア、電撃殺人器etc.、すべての試合でデスマッチの形式を変えて、観客に新しい世界観を見せるため、毎回頭を悩ませていたといいます。人々が思いもかけないものを用いて戦う――観客を飽きさせず、常に驚かせる仕掛けを生み出していたデスマッチ界の天才は、秀才ではなく努力の人だったのだと思います。

受け入れてもらえない時代に戦った人だけが伝説になる

「プロレスラー人生のなかで、言われて一番嬉しかったのはやっぱり『ミスター・デンジャー』ですね。デスマッチは僕一代で終わると思っていました。当時は対戦相手を探すのにも苦労していたんです。痛くて流血する戦いなんてやりたくない、と考える人は多いですから。

それにメディアもファンも、デスマッチが大好きになる人もいれば、『こんなのプロレスじゃない』と猛烈に嫌う人もいる、という風に賛否両論あり、二分されていました。現役時代の僕はプロレスに関する賞をとったこともないですし。

でも、戦い続けていたら、デスマッチ路線を志願するレスラーが出てきたし、ファンも増えました。デスマッチが受け入れてもらえない時代に、デスマッチというスタイルを貫いてきたから、今ではレジェンドなんて言ってもらえる。たくさん否定もされて、そのぶん注目もされたおかげですね」(松永さん)

2008年5月、“事実上の引退試合”として「ガラスレイン鉄球地獄デスマッチ」で戦い、プロレスラー人生を終えた松永さん。当時筆者はプロレスのプの字も意識しない大学生でした。現役のミスター・デンジャーを生で観られなかったのは悔しい。

でも、ミスターデンジャーに行けば、ミスター・デンジャーに会うことはできます。常人にはなし得ない戦いを何十、何百と重ねてきた人特有の、対峙する者にどこか畏怖の念を感じさせながらも、穏やかで、優しいミスター・デンジャーに――。

店を続けてくれて、ファンと接点を持ち続けてくれてありがとうございます。心からお礼をお伝えしたいです。

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