気づけば、いつも同じ街で飲んでいる。
理由を聞かれても、「なんとなく」としか答えられない僕に、「きっと街の空気も一緒に飲んでいるからですよ」と教えてくれる先輩ノンベエがいた。
酒場案内人の塩見なゆさん。全国の酒場情報を発信する彼女は、「お酒を飲む」ことが職業。
嘘か真か、年間2000軒の酒場を飲み歩くという彼女は、なるほど、誰よりもおいしそうにお酒を飲む。
「街の空気もつまみのひとつ」と教えてくれた彼女は、どんな街で飲み、どんなことを感じているのだろう。
お気に入りのつまみ(街)と、その思い出について語ってもらうことにした。
ライター紹介
両親が酒好きという家庭に生まれ
父と母はともにお酒が大好きで、酒場で知り合って結婚した夫婦でした。私が酒場を好きになったのは、間違いなく両親の影響です。
どちらも会社勤めではなく、父は作家、母はエッセイストを職として、時間に関係なく常に私の近くに居てくれました。
そんな二人ですから、友達や仕事仲間もノンベエばかり。荻窪の自宅に編集者や同業者などのノンベエが集まっては、深夜まで大宴会。
その宴会に付き合っていたかと言うと、そうではなくて、子供ながらに「もう9時だから寝よう」と、ふすま一枚隔てた寝室の布団に籠もって勝手に寝ていました。
それでも、さっきまで宴会の脇に加わり、みんなで騒いでいた興奮はすぐに覚めるはずもなく、ふすまの隙間から楽しそうな大人たちを覗いていたものです。
そんな生活だったので、お酒は飲まなくとも身近な存在でした。ビールケースをおもちゃにして遊んでいたくらいに。
ベビーカーで酒場デビュー
はじめての酒場デビューは、吉祥寺にある焼鳥屋「いせや公園店」です。いや、総本店の方だったかな…。
ベビーカーからの視点で、坂の上の焼鳥屋をねだった記憶が、心のなかの原風景として残っています。
荻窪の自宅から、井の頭公園への道はお決まりの散歩コースでした。ベビーカーに乗せられ、やがて自分の足で歩き、井の頭池の畔(あぜ)で休憩してから、きまって「いせや」へ入りました。
当時の公園店はバラック造りで、トタンを組み合わせたような不思議な建物でした。店先は狼煙のように煙を上げる焼き場と、常連さん用のカウンター。
店内はテーブルがずらりと並び、店の奥は日焼けして黄色く染まり、へりがむしられ毛羽立った畳の和室がいくつかありました。
両親は瓶ビール、私はジュースで乾杯し、焼鳥や大きなシュウマイを頬張るのが、子供の私にとってなによりの楽しみでした。店に充満する煙と人々の笑い声は、今でも忘れません。
こうした日々を重ね、荻窪の自宅周辺から西荻窪・吉祥寺にかけての酒場の空気を吸いながら、多くのノンベエたちに囲まれて成長していきました。
目を瞑っても行ける、酒場までの道
振り返ってみれば、この界隈の飲み屋には30年ほど通っていることになります。
いせや総本店、いせや公園店はともに建て替えられ、近代的な飲食店に生まれ変わりました。
「周囲の風景もがらりと変わった」
という流れがコラムとしては良さそうなのですが、実際は街並みにあまり変化はありません。
吉祥寺駅南口、人通りも多い賑やかなサンロード商店街に、道幅いっぱいで小田急バスが入ってくる景色も、マルイに集まる若い人たちも、昔と変わりません。
古着屋が並び、ソフトクリームをもったカップルが歩き、井の頭公園で真っ昼間から花見でなくとも宴会を楽しむ大人たち。
公園に集まるパフォーマーや駆け出しミュージシャン。
変わってきたように見えて、昔からなにも変わっていないのかもしれません。
吉祥寺駅周辺は、平成の30年間で再開発がほとんど行われていません。
酒場は、店へ至る街並みも含めて”酒のつまみ”だと思います。このごちゃっとした吉祥寺の景色が、私のお酒を美味しくしてくれるのです。
「いせや」は新しくなりましたが、目を瞑ってもたどり着けるお店への馴染みの道が、あの頃の記憶を思い出させてくれます。
酒場は、ただ飲食をするだけの場所ではなく、そこで交差を繰り返す、数多の人たちの記憶をとどめておく場所だと思うのです。
私は、大人になった今でも、吉祥寺の「いせや」へ年初のできるだけ早いうちに飲みに行くのが恒例です。
店員さんに挨拶をするわけでも、常連さんと会うわけでもありません。
酒場という記憶の容れ物に、新たな1年を積み重ねる、そのために飲みに行くのです。
- いせや公園店
-
東京都 武蔵野市 吉祥寺南町
焼き鳥