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横浜にある北海道料理のお店で、結婚相手を初めて父に紹介した

マイペースな父と緊張している彼

「お嬢さんを僕にください」

そう言って男性が彼女の父親に頭を下げるシーンを、ドラマなんかでよく見る。

私たちが結婚を決めたとき、彼は私の実家には行かなかった。私の実家は北海道だが、当時は父が横浜に単身赴任をしていたからだ。

彼を実家に連れて行ったこと自体は何度かあったので、母や祖母は彼と面識があった。けれど、父は彼に会ったことがなく、よく「サキちゃんの彼氏に会ったことないの俺だけかよ~」とぼやいていた。

そんな父に、彼は横浜で初めて会うことになる。もちろん、結婚の報告をするためだ。

お店は父が予約しておいてくれた。横浜駅西口から5分ほど歩いたところにある、『ユック』という北海道料理のお店だ。

横浜でわざわざ北海道料理……。

それを知った彼は、「向こうの土俵に持ち込まれたな」と冗談っぽく言った。

ところで、私の父はひょうきんな人だ。

特技は「ビンゴ大会の司会」。昔から、お盆やお正月に親戚が集まると、父主催のビンゴ大会が行われる。

姉の結婚式でも「花嫁の父によるビンゴ大会」が行われ、あまりの客いじりの上手さに、新郎側の参列者がざわついていた。

そんな父だが、ユックで彼と対面した日は、それほどテンションが高くはなかった。かといって不機嫌でもない。

なんていうか、飄々とした感じ。お調子者のわりに意外とシャイなので、もしかしたら少し人見知りしていたのかもしれない。

彼はというと、相変わらず口下手だった。後から聞くと、やっぱり少し緊張していたらしい。

父は彼に向かって唐突に、「君はあれだな、AB体だな」と言った。

私も彼も、意味がわからなくてポカンとする。

「AB体ってのは、あれだ。ずんぐりむっくり」

どうやらスーツのサイズのことらしい。父はスーツの会社に勤めているのだが、その人の体型を見れば採寸しなくてもサイズがわかるという。

この日の彼はスーツ姿ではなかったが、サイズを言い当てられてしまった。それにしても、初対面の相手に「ずんぐりむっくり」とは失礼な。

ユックはさすが北海道料理を謳うお店というだけあり、海の幸がとても美味しかった。

特に、脂ののった焼きハラスが美味しくて、魚好きの私と父はもちろん、そこまで魚好きではない彼も目を輝かせて食べていた。

それから何を話したかはよく覚えていない(なんせAB体のインパクトが強すぎた)。

けれど、世間話をしただけだったと思う。父は彼のことを根掘り葉掘り聞かなかったし、「娘をよろしく」みたいなことも言わなかった。

その日も父はいつも通り、バクバク食べてお酒をいっぱい飲み(いつも母に早食いを注意されている)、最後はあっさり別れた。

帰り際なんて、私がトイレに行っている間にスタスタと先に行ってしまったほど。何を考えているのかよくわからない。

後日、母から聞いたところによると、父は彼のことを「あいつはいい奴だな。人を見る目がある俺が言うんだから間違いない」と言っていたそうだ。

その自信がどこから来るのかはわからないけれど、お気に召したようで何よりだった。

干渉しない父とのふたり暮らし

父と私は、ふたりで暮らしていたことがある。

父は私が高校生のときから横浜で単身赴任をしていたのだが、私が東京の専門学校に進学するにあたり、そこそこ広い父のアパートで同居することになったのだ。

父のアパートは、相鉄線の西谷駅の近くにあった。横浜駅から各駅停車で7駅の場所だ。

初めて西谷に来たとき、「ここが横浜?」と驚いた。

私が育った札幌の郊外よりも、ずっと垢抜けない印象だったからだ。商店街には古びたケーキ屋さんや玩具屋さんが並び、まるで昭和から時間が止まっているよう。

小ぢんまりしていてノスタルジックな商店街を歩いていると、まるでここが故郷かのように落ち着く。優しい雰囲気の町だ。

これといった理由はないのだけど、直感的に「ここ、好きだなぁ」と感じた。学校が御茶ノ水だったから通学は大変だったけれど、私は西谷の気どらなさが好きだった。

ところで、私と父はお互いにあまり干渉しないルームメイトだった。掃除も洗濯も各自で行う。

すでにひとり暮らしが長い父はマメに家事をこなしていたが、私はだらしない娘だった気がする。

家には寝に帰るだけで、部屋はぐちゃぐちゃ。遊び歩いてはしょっちゅう外泊するし、同じ家に住んでいるのに、父と何日も顔を合わせないことがあった。

父は自炊派だったけれど、私はバイト先の居酒屋でまかないを食べていたから、家でご飯を食べることはほとんどない。

けれど一ヶ月に一度くらい、気まぐれに夕食を作ってみたりしたこともあった。私が作るのは毎回同じで、ご飯と味噌汁、焼き魚とサラダだ。

父は文句を言わずに食べていたが、母には「あいつの作る夕食、毎回同じメニューなんだよ」と漏らしていたらしい。

専門学校の3年間は本当に怠惰な生活をしていて、同じ家に住む父はきっと、イライラしていただろう。

けれど、父は私の生活態度には何も言わなかった。大人になった今、その忍耐力に感服する。

父はきっと、私を甘やかしていたのではない。干渉しないことで尊重し、同時に自立を促していたのだと思う。

書くことを好きになれた、父の言葉

思春期以降、父とはあまり会話をしなくなっていた。別に「お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで!」というほどの嫌悪感もないけど、特に仲がいいというわけでもない。

父親と仲のいい友人が中学生になっても「パパと映画に行ってきたの」と話しているのを聞いて、うちでは考えられないな、と思った。

そんな私と父には、ひとつだけ共通項があった。

それは「本が好き」だということ。読書は父の唯一の趣味だ(ビンゴの司会は特技)。特に小説が好きで、家にはたくさんの本があった。

私は幼い頃から、父の本棚にある本を勝手に読んでいた。私が小説を好きになったのは、きっと父の影響だろう。

父は、私の読書量と文章力を褒めてくれた。

今思うと恥ずかしいのだけど、小学生の私はさくらももこさんのエッセイに影響を受け、先生やクラスメイトを笑わせようとウケを狙った作文を書いていた。父は晩酌しながら私の作文を読み、ゲラゲラと笑った。

そして、「サキちゃんは文章を書く才能があるな」と言った。

私には兄と姉がいるのだけど、兄は高学歴で、姉は器量が良い。

私は、賢くもなければ美人でもないので、普通なら兄と姉に劣等感を抱いてもおかしくない。しかし、私は意外にも劣等感を持つことなく育った。

それは、父が「読書量と文章力はサキちゃんが一番だな」と言いつづけてくれたからだと思う。

その言葉は幼い私に染み込み、いつの頃からか私は、「書くことを仕事にしたい」と公言するようになった。

父は「お前には無理だ」とも「お前ならやれる」とも言わず、黙って見守ってくれた。

定年までを横浜で過ごした父は、定年退職後、ようやく北海道の家に戻った。今は母とふたり、のんびりと老後を過ごしている。相変わらず、本を読んでばかりいるようだ。

父は今、71歳。健康だけど、それでも残りの時間が気になる。年に一度帰省するとして、あと何回、父と一緒にお酒を飲めるだろう?

もしかしたらその回数は一桁かもしれなくて、その可能性に思い至った瞬間、胸の奥がキュッと痛んだ。

私まだ、親孝行してないな……。

できる限り実家に帰って、父と小説の話をしたい。

AB体の夫も一緒に、焼いたハラスをつつきながら。

ライター紹介

吉玉サキ
吉玉サキ
北アルプスの山小屋で10年間勤務したのち、2018年からライターとして活動。不登校、精神疾患、バックパッカー旅、季節労働など、自身の経験を生かしたエッセイやコラムを書いている。好きな食べものはおにぎり。
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