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『お客様は神様』で散々な思いをした。毒舌アカウント「黒かどや」店主が、あえて悪役を演じるワケ

向島『かどや』店主の青木さんの「酒場のローカルルール」についてのツイートを目にしたとき、正直言って少し驚いた。

「厳しい」とあるわりには、優しいな、と思って。

青木さん:「大声出すとか、お店で寝るとかね、誰だっていやじゃないですか。それを誰も言えないから僕が悪者になって、言ってるんです。必要に駆られてですよ。少しでも社会が変わればいいと思って。お客様が神様、という世界で僕は商売はじめて、さんざんいやな思いをしたんで。

昔と比べればだいぶ変わりましたけどね。ブラック、って言葉なんてなかったですもんね。そういう言葉も出てきたりして、どんな理不尽なことされても、『お客様』だろ、何言ってるんだ、という世界だったのが、変わってきたんでね。よかったです、ほんと」

▲『かどや』店主の青木さん

▲『かどや』店主の青木さん

青木さんは常々、SNSで「下町の場末酒場」を自称し、了見が狭いお客の振る舞いを事細かに描写し「乞食飲兵衛」と腐している。

そのせいか、このところは、SNS上に数多ある『かどや』訪問記を記している書き込みを見ると、「身構えつつ扉を開けてみたら、予想していたよりも和やかでおいしくてすっかり満足」という内容が目立つ。

そのことを伝えると、青木さんは、我が意を得たり、というようにニッコリした。

いつの世も人心を掴むのは、思っていたのと違う「うれしい裏切り」なのである。

青木さん:「怒られるんだと構えて、こわいもの見たさで来てくれたほうがいいんです。悪いお店だと思って来るから、案外よかったとなる。落ちないんです、それ以上。悪かったら悪かったで、やっぱり悪かっただし、よかったら上向きになるんだから」

Twitter上の「黒かどや(@kadoya1)」としての青木さんはとても饒舌でいながら、存外、自分自身については語らない。

5年以上10年未満、ここ向島の『かどや』に通っている私も、青木さん本人のことをほとんど知らない。

青木さんのライフヒストリーを聞きたい、書きたい、と思っていると伝えると、あまり面白くなさそうにして「興味ないですよ、僕のことなんか誰も」と返す。

そもそも『かどや』で飲むようになってしばらくは、地元の人がはじめた店で、当初は一軒家だったけれど少し昔に建て替えられて、今では二代目が継いでいるんだろう、と、思い込んでいたのだった。

青木さん:「それ、みんなに言われるんですけど、こんなとこで商売やる人いないっすよ」

いつだったか、だいぶ前、静岡は焼津のお酒「磯自慢」について会話したとき、青木さんは静岡出身なのだと分かった。同い年であることは、こないだ知った。

青木さん:「ほんとは定食屋をやりたかったんです」

これもはじめて聞いたことだ。『かどや』の日替わりメニューにある、お刺身やおひたしを思い浮かべれば、その定食はかなり魅力的である。

▲刺身のおまかせ3点盛り

▲刺身のおまかせ3点盛り

しかし、青木さんは悲しげに、こう続ける。

青木さん:「でも、定食屋は儲からないんですよ。定食700円としますよね、お客さんが20人来たとして14000円ですよ。定食ってひとりで三人前も四人前も食べないじゃないですか。

じゃあ、一杯500円のお酒だとしたら、酒ってひとりで10杯飲めるじゃないですか。そこなんですよ。700円の定食つくるの、どんだけたいへんですか。味噌汁つくってごはん炊いて、おかずからキャベツの千切りからお新香から。

酒だったらもう、注ぐだけ。水商売とはほんとよく言うなあって思います。同じ5万円儲けるんだって全然違いますよ」

とはいえ、年取ったらやりたいなあ、とひとりごちる青木さんは、定食屋への夢を捨ててはいないとみえる。

そういう、これからの話をするのも楽しいものだが、ここでは、これまでの話を辿ってみたい。

30席ある店を1人で回した「かどや創業期」

18で上京した青木さんは、板前修業をはじめる。「流れ板」としていろいろな料理屋で働き続け、およそ10年が経ち、また次に移ろうとしたとき、条件が合わずに見送ることになった。

いっとき体が空いた、そんなとき。

青木さん:「次のいい仕事が決まるまでバイトしようかなあと思ってたんですけど、東向島3丁目の白髭神社のすぐ近くで、よく前を通っていた焼き鳥屋さんが、空き店舗になってたんです。じゃあ、お店やってみようかなあって。家賃安いし、カウンター7席の居抜きだし、失敗したって元の仕事に復帰できるし」

大胆!

青木さん:「これが間違いのはじまりでしたね」

そこから『かどや』がはじまった。時は2004年、青木さんは29歳だった。

青木さん:「カウンター7席から8席にして、拡張して3人掛けのテーブルをつくって、2階にも4人がけのテーブルを4つ置いて。マックスは上20人、下10人。僕ひとりでよくやってましたよね、頭おかしいと思いますよ」

客席を増やしまくった結果、ボトルキープのための場所がなくなり、そこから、酎ハイを、生ビール用のピッチャーに注いで出すことを思い付いた。

青木さん:「ボトルキープは、用意するものも多いんですよ。ボトルを持ってって、割り材と氷、カットレモンを持ってって。俺はウーロン割、俺はソーダ割とか言われて。ピッチャーだったら飲みきりでしょ。別にどっかのお店パクったんじゃなくて、必要に駆られてやったんです」

同じく、空き瓶を置く場所がとれないという理由もあり、当時流行りはじめていた、大衆酒場らしさを担う飲みもののひとつでもあるホッピーを扱うことを断念し、今に至っている。

「雪中梅の普通酒がいちばん好きなんっすよね」

はじめて私が『かどや』に入ったのは2011年の夏だった。そのときはすでに今の場所、向島5丁目に移っていたから、前述の、東向島のぎゅうぎゅうの時代は残念ながら知らないのだった。

第一印象としては、数多の日本酒が用意されていて、それを一升瓶からコップに注いでもらって気安く、値段もお安くおいしく飲めて、なんて素晴らしいんだろう、と感じ入ったのをおぼえている。

▲店内に掲げられる日本酒ラインナップ

▲店内に掲げられる日本酒ラインナップ

当時は、大衆酒場、という暖簾を掲げていて、かつ、フレッシュな日本酒が飲める店というのは、東京の東にはほとんど存在しなかったのも記憶している。あるいは、今でもそうかもしれない。

青木さんが日本酒に注力するようになったのはその数年前のことだった。厨房を託せるスタッフがいた一時期「じゃあ、地酒を勉強してみようか」と思い立ち、東京から遠い地方の酒屋と新たに縁を繋ぐことにも力を入れはじめた。

青木さん:「地酒にこだわる銘酒酒場、そういうのに対する憧れとかもありましたし。でも、地酒の世界は全く異次元でしたね。それまで付き合いのある、生樽や瓶ビールを配達してくれる酒屋さんは、こっちが買いたいって言っても持ってこれない。ルートがないからなんです。基本、地酒屋さんに買いに行かないといけない、そこにしかないお酒なんです。

だから、卸売市場へ行くような感じですね。市場で仲卸から魚を買うとき、僕らは頭を下げて買うんですよ。売りたくない奴には売らない、そういう世界と全く同じですね。『十四代』とかも、その頃から扱ってるので今でも手に入るんですよね」

中でも贔屓にしている銘柄はなんでしょう、と訊ねると、照れ笑いが返ってきた。

青木さん:「えへへへ。僕は『雪中梅』が、普通酒がいちばん好きなんっすよね。これ、あんまり言えないんですよね。言っちゃうと、みんなばかにするんです。一升瓶が2000円しない、安いお酒ですけど、あれをこえるお酒はないと思うんですけどね」

一杯、この記事のために写真を撮るならどれがいいですか、と訊くと、宮城『田中酒造店』の「シャムロック」を青木さんは出してきてくれた。

このお酒を醸した杜氏、盛川泰敬さんと青木さんは、かつて盛川さんが岩手『喜久盛酒造』に在籍していたときに知り合ったのだという。

その後、紆余曲折あり、今では『かどや』には喜久盛の日本酒は置かれていないのだが、杜氏としての盛川さんにはシンパシーを感じ続けているという、青木さんだ。

あちこちの酒蔵を渡り歩きながら、そこでベストを尽くす、という仕事のありように「流れ板」だった頃の自らのスタンスを重ねているのかもしれない。

「出来合いのポテサラ」の裏にあるもの

お酒の話よりも、料理の話のほうに熱が入る、青木さん。

安くておいしいものを、早くこしらえないといけない、という矜持が根っこにあって、そこは決して譲らない。

▲かどやの人気メニュー「ハムカツサンド」

▲かどやの人気メニュー「ハムカツサンド」

青木さん:「ちんたら仕事するの好きじゃないんで。営業しながら、注文こなしながら、仕込みもできるんで」

それはどういうことなのかと聞いてみると『かどや』では「仕込み中」という時間と「営業中」という時間が重なっているということなのだった。

青木さん:「普通のお店は、たとえば午後3時から入って、5時まで仕込みをしますよね。魚捌いたりとか。その時間、お客さん入れないのもったいないなと思って、3時から営業してるんです。まあ、誰にもできることじゃない、器用でない人間にはできないですよね」

青木さんは軽やかにそう言ったが、文字にすると不遜な言葉として受け取られるかもしれない、それは否めない。ただ、ここに青木さんの自負があることは間違いない。

出来合いのもの、冷凍ものは極力使わないというのもそうだ。ただし例外もある。

たとえば、新宿は百人町『山十食品』のマカロニサラダとポテトサラダ。

きっかけは、2017年の夏、スーパーマーケットで買ったポテサラを食べた人がO157に感染するという集団食中毒事件が群馬と埼玉で起きたことだった。

その余波で、全く別の土地の、全く罪のないポテサラまでが売れなくなったことを憂い、千住市場で仕入れてきたのだという。

しかし今、当時の記事を見ながらそのことを振り返っていると、まだ2年も経っていないのに、私はその事件をあっさりと失念してしまっていることに気付く。薄情だなあ。

「当時は応援で、今は手抜きで使ってます」と、青木さんはあっさり言うが、ここのサラダはほんとにほっとする味なので、このまま仕入れ続けてほしくはある。

青木さん:「市場に行くと、たまあに、冷凍ものに付き合ってくれ、賞味期限短くてだぶついちゃうから買ってくれって、頼まれる場合があるんです。ほんとは要らないけど、そこで付き合うのも大事なんです。信頼関係。なにかあったときに助けてくれる。

お店で、単品で出せないなと思ったらお通しで出すとか。でも、前、既製品のアジフライをお通しで出したら、おいしいって言う人いるんですよ。逆にそれはショックですよ。そんなのおいしいって言われたら、刺身用のアジを捌いて、生パン粉付けて揚げてるアジフライを300円で売るのがばかばかしくなっちゃいますよ」

こんな話を聞いてしまうと、やっぱり、青木さんの営む定食屋の風景を思い浮かべてしまう。年取ったらやりたい、と言っていたけれど、それはいくつくらいを想定しているのだろうか、訊いてみると、70歳くらい、と答えが返ってくる。

けっこう先だなあ、その頃にはもしかしたら、令和のさらに次の時代になっているかもしれない。その未来に置かれるおぼん、その上にのせられためし碗や小鉢を、想像してみる。
 

ライター紹介

木村 衣有子
木村 衣有子
文筆家。1975年栃木生まれ。2002年より東京在住。主な守備範囲は食文化と書評。主な著書に『味見したい本』『もの食う本』(ちくま文庫オリジナル)、『はじまりのコップ 左藤吹きガラス工房奮闘記』(亜紀書房)、『コーヒーゼリーの時間』『コッペパンの本』(産業編集センター)などがある。リトルプレス『のんべえ春秋』編集発行人。埼玉西武ライオンズファン。
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