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ハモニカ横丁で飲み歩いていた二十歳の日々

30歳を過ぎて、懐かしさと切なさの区別がつかなくなってきた。

懐かしいものを見ては胸がぎゅっと締めつけられ、その感覚を一括りに「エモい」と喜んでしまう。

そんな私も、吉祥寺にあるハモニカ横丁の前を通るときだけは目を背ける。15年前の私が頻繁に泥酔していた場所。

消したい過去というわけではなく、どちらかといえば愛しい思い出なのに…あまり思い出したくない。

懐かしさよりも切なさが圧倒的に勝ってしまう。

あの頃のことは決して忘れたくないけど、決して戻りたくもない。

幼なじみとハモニカ横丁で飲んだくれていた頃

ハモニカ横丁で飲み歩くようになったのは二十歳のとき。幼なじみのチヒロと、毎週のように朝まで飲んでいた。

私たちはふたりとも、地元の北海道を離れて東京の学校に通っていて、帰省したときに再会し、上京組という接点から東京でも遊ぶようになったのだ。

ハモニカ横丁を知ったのは私が先だった。

学校の先輩が、ハモニカの『吉バー』というお店で週に1度マスターをしていて、飲みに行ったら面白かったことがきっかけ。

チヒロを誘って一緒に行ったら彼女もハマり、それ以来、頻繁に行くようになった。

ハモニカ横丁は、細い通りに小さなお店が連なっている。私たちは次第に、吉バーだけではなく、他のお店も開拓するようになった。

飲み歩いているうちにだんだん、顔見知りの飲み仲間が増えていく。

そこで出会う大人たちは、音楽や演劇、美術、漫画や文学など、「プロではないけど何かしらの表現活動をしている人」が多かった。私は専門学校で文芸を専攻していて、チヒロは美大生。ハモニカで出会う人たちとは親和性が高かった。

二十歳の私にとって、初めてできた「行きつけのお店」はとても楽しいものだった。行けば、誰かしらいるのが嬉しい。

私はお酒の飲み方を知らなくて、調子にのって飲み屋をハシゴしては酔いつぶれ、みっともなく泥酔した。

当時の私は、作家になりたくて小説を書いていたのだけど、日によって自己像がグラグラ揺れていた。

「自分は作家になれる。自分にはそれだけの力がある」と信じて疑わない日もあれば、「私のような凡人が何者かになれるわけがない。なのに目指してしまうのが苦しい」と思う日もある。

今思い返すと、思い込みが激しく自己陶酔的だった。

私はいつも何かに急き立てられるように焦っていて、それなのに勉学に励むこともなく、ハモニカでグダグダしていた。

怠惰で臆病。夢が叶わないことの恐怖から目を背けたくて、ハモニカ横丁とチヒロに逃げていたのだ。

私はたくさんのことをチヒロと語った。

夢、将来の不安、社会への恨み節、今書いている小説のこと。

どんな話も、チヒロはヘラヘラと軽い調子で聞いてくれた。

彼女はポジティブだけど、決して私のネガティブさを否定しない。けれど、私のことを突き放しているわけでもない。意見が食い違えばはっきり言うし、喧嘩したこともたくさんある。

お互いに就職活動が始まると、私たちはあまりハモニカ横丁に行かなくなった。そして、卒業後はそれぞれ東京を離れた。

ハモニカの飲み仲間たちとも、しばらくはSNSで繋がっていたけど、だんだんと疎遠になっていった。

14年ぶりのハモニカ横丁

この原稿を書くため、14年ぶりにハモニカ横丁へ行った。

風の噂で知っていたけど、当時よく行っていたお店はほとんどが閉店していた。

大好きだった、『吉バー』『イラブチャー』『ミシシッピ』。なくなっているのが寂しいような、どこかほっとしたような気持ちだ。

コパンダ

唯一、当時と同じ場所で営業していた「コパンダ」に入る。たまに来ていたお店だ。

横丁の角にあるコパンダは、カウンター6席と小さなテーブルが3つ。カウンターの中にいる威勢のいいお兄さんは、当時とは違う人だった。

お兄さんと常連さんの、カウンター越しのやりとり。暖かそうなオレンジ色の照明、おでんのにおい。なんだかとても心地良い。

当時、よく注文していたメニューは思い出せなかった。

くんせい卵のポテサラ

くんせい卵のポテサラ

スパムゴーヤ炒め

スパムゴーヤ炒め

料理はどれも美味しい。けれど、懐かしいかどうかはわからない。メニュー自体、変わっているのかもしれない。

久しぶりのコパンダは、懐かしいというよりも新鮮だった。まるで、初めて来るお店のような。

それは、私にとって残念なことではない。お気に入りのお店がひとつ増えたような、そんな嬉しさがあった。

おふくろ屋台一丁目一番地

よく行っていた「ミシシッピ」はなくなっていて、その場所には「おふくろ屋台一丁目一番地」というお店があった。

階段を登るとカウンターがあり、さらに上の階は掘りごたつのようになっている。フローリングの部屋にひとつだけ、大きなロの字型のテーブルがあるのだ。昔はよく、床に転がって朝を迎えていた。

今回は、さらにその上の階に通される。

雑然とした小さな室内にはテーブルがふたつ。私たちのテーブルには、他に2組の男女がいた。

やさしい味のもつ煮込みをつまみにお酒を飲んでいると、自然と、相席の人たちと話が盛り上がる。そういう雰囲気がすでにできているところも、このお店の良さだろう。

相席になった皆さんはほとんどが20代で、35歳の私より若い。だけど、私が20代の頃よりもずっと礼儀正しくて聞き上手だ。

テーブルの上をくるくる回る、和やかで面白おかしい会話。口下手な私は聞き役に徹し、笑いながら相槌を打った。

今の私は、あの頃とはずいぶん違う。

二十歳の私は、ハモニカで出会う大人たちに「才能あふれる個性的な子」と思われたくて、自己主張しまくっていた。

今の私はというと、地味で無口。あの頃の私が今の私を見たら、きっとガッカリするだろう。

だけど、それでいい。肩の力が抜けた今のほうが、ずっと楽に生きられる。

35歳の今、あの日々をふりかえって思うこと

ハモニカで飲み歩いていた15年前の日々を思い返すと、だらしなかったなぁ、と感じる。

親に学費を出してもらって何をやってるんだ。そんな暇があったらもっと勉強して、もっと小説を書け、と。

だけど、私はあの日々を後悔していない。たぶん、タイムスリップして二十歳に戻っても、私は同じように飲み歩いてしまうのではないか。それがいいとか悪いじゃなくて、どうしたってそういう人間なのだ。

だからと言って、「あの日々があったから今の私がある」とも思わない。あの頃のだらしなさや痛々しさを美化したくない。

15年前、ハモニカ横丁で飲み歩いていた。

ただ、それだけ。

それ以上でも、それ以下でもなく。

ライター紹介

吉玉サキ
吉玉サキ
北アルプスの山小屋で10年間勤務したのち、2018年からライターとして活動。不登校、精神疾患、バックパッカー旅、季節労働など、自身の経験を生かしたエッセイやコラムを書いている。好きな食べものはおにぎり。

著書「山小屋ガールの癒されない日々」も要チェック!

吉玉サキ著「山小屋ガールの癒されない日々」

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