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「ベルクに行けば何とかなる」 あの安心感はどこから来るのだろうか

朝7時には、これから仕事に出かけようという人が、モーニングセットを食べることのできる喫茶店であり、あるいは、夜の仕事を終えた人が寝酒を一杯やる酒場でもある。

夜23時の閉店間際には、そのふたりの立場は入れ替わる。さあ行こうという気合いと、解放された安堵感、そんな相反する気分さえすんなりと抱き込んでくれる場所。

それが新宿駅東口改札から徒歩10秒の地下にある、15坪の『ビア&カフェ ベルク』である。

ベルクを出るとき、私はなんとかなっている

「ベルクに行けば何とかなる」

ベルク店長の井野朋也さんは、これを私の言と記憶されていて、私自身もうっかりそう思い込んでいた。しかし、実は「ベルク通信」に載っていた井野さん自身の言葉が元になっていたのだった。

今夏の6月号で302号を迎えた「ベルク通信」

今夏の6月号で302号を迎えた「ベルク通信」

月刊フリーペーパー「ベルク通信」は壁新聞のようなスタイルで、ベルクの社員の愛染恭介さんによって編集され、ベルクだけでもらうことができる。立ち飲みカウンターに身を預けながらこれを読んでいるとき、ああ、ベルクにいるなあといつも実感させられる。

そのバックナンバーから名言を選り抜くという仕事をしたことがある。『東京ひとりめし』なるタイトルのムックで、10年前に。

選んだのは、たとえばこんな言葉だった。

何せベルクは、大人のための大人によるファーストフードなんですから。

先日、ごった返す店内で客になりすましてましたら、隣で老紳士がグラスを傾け、連れ合いの方に落ち着いた口調で、わしの目の黒いうちはこの店は潰させん、と断言してらっしゃいました。どなたか存じませんが、乾杯!末長く黒い目で!

何のためのベルクだ。この一杯のコーヒーのためのベルクだろ。

こう並べてみると、ツイートっぽいなあと思う。ツイッターが存在しない時代のものではあるのだけれど。

その中に、あの台詞があった。

「改札を出たら、ほぼベルクに着いたようなものです」「ほぼとは?何%?」「98%」「2%は何ですか」「今日もベルクはあるだろうか?というスリルとサスペンスですね。それも、ほんの数歩の間ですが、すぐベルクはありますし、あれば何とかなってしまうので。おいしいコーヒーやビールが待ってますよ」

(「ベルク通信」2006年6月号より)

「あれば何とかなってしまう」

そうだ、なんとかなるのだ、きっと、私も。

そう感じ入って、ベルクは「何とかなってしまう」場所であることを再確認するエッセイを書いた。当時、上京8年目だった私の心境もてんこ盛りにしつつ、こうしめくくった。

ベルクに行けばなんとかなる。それは本当だ。ベルクは他力本願な私をわかりやすく撫でたりさすったりしてくれるわけではないのだけれど、ベルクを出るときの私は、おなかがいっぱいになって、あるいは少し酔っぱらって、もしくは目が冴えている。そして気付けば、私はなんとかなっている。

(『Meets Regional別冊 東京ひとりめし』2009年 京阪神エルマガジン社刊より)

「あまのじゃくは損をする」 私のベルク初め

ここにあらためてベルクと私の馴れ初めを記したい。

21世紀になって間もないとき、東京に引越そうと決めた私。

それまで住んでいた街にあった喫茶店『六曜社地下店』の店主、奥野修さんが、新宿にはベルクといういい店があるよ、そう教えてくれた。

しかしすぐにはその教えに従わなかった。すでに周りの、六曜社の常連たちは、仕事のためあるいは遊ぶために上京しては、修さんに教えてもらったベルクはやっぱりよかった、と、誇らしげに報告し合っていた。

その、みんなの輪にすっと加わりたくなくて、つまらない意地を張っていた。あまのじゃくだったなあと振り返る。

実際、東京に暮らしはじめてから1年のあいだ、ベルクのある新宿までは電車で10分足らずのところに住んでいたにもかかわらず、一度も行ったことがなかった。その代わりといってはなんだが、「渋谷のんべい横丁」の『NON』という小体なブックバーに通い詰めていたのをおぼえている。

1年と少し経った頃に、彼氏ができた。まだ東京に来てよかったとは言い切れないような暮らしぶりではあったけれど、あのときどんなにほっとしたかを思い出すと、しみじみ肩の力が抜ける。

やっぱり友達と恋人は違う。とはいえ、結果的にはその人との付き合いはあまり長続きはしなかったのだけれど、付き合いはじめて間もない頃、次のお出かけの相談をしていた。待ち合わせは、朝に新宿で、と。

「新宿駅だったらベルクでコーヒー飲みたいな」

その人は、そうひとりごちた。私が特段返事をしないでいると、こちらの顔を見て、こう言った。

「あなたが行かなくても僕は飲んでから行こうっと」

当時のやりとりをあらためて書き出すと、この人は私を動かすのにはどんな台詞が有効か知り尽くしていたのだな、と、感心する。

「どうせ行かないんでしょ?」とか、「行きたくないんだよね?」とか先回りされると、いや行く、と反発したくなるところをよく分かっている。完璧だ。

ともかく、私ははじめてベルクに入り、その人と一緒にコーヒーを飲んだのだった。

彼氏は一足早く店に着いており、カウンターに向かっているその姿を確認したのち、私もブレンドコーヒーを注文し、カップを持って隣に行く。

彼氏はエスプレッソを飲んでいた。

「あ、普通のコーヒーにしたんだ、エスプレッソのほうがおいしいのに」と言われて、だったら先にそう言わんかい、と、彼氏を睨みつけたものだった。

はじめて入ったベルクは、想像どおりだったろうか、それとはまた違っていただろうか。そのあたりはもう思い出せない。

その後、朝だけでなく夜も、ベルクによく行くようになった。しばらくは彼氏に倣ってエスプレッソばかり飲んでいたが、いつからか「普通のコーヒー」もいいよなと趣旨変えをした。

そういや、口開けのビールは生と黒生のハーフ&ハーフ、二杯目はエーデルピルスと、やはりしばらくのあいだ決め込んでいたのも、彼氏の嗜好をそのまま映してのことだった。

今では、ベルクといえば普通の生一辺倒である。なんだかんだと、結局プレーンなほうに帰っていくというのが、私の根っこの嗜好なのかもしれない。

ちなみに、ベルクの生ビールの銘柄は「サッポロ樽生黒ラベル」、黒生ビールは「エビス」である。

その彼氏と別れてからもひとりで行ったし、周りの人を誘ってもみた。「いい店だよ」と声をかけると一緒に来てくれたり、あるいは、「行ってみたよ」「よかったよ」と報告してくれたりと、みんなすんなりとベルクに飛び込んでいった。

そういう局面では、私ほどあまのじゃくな人物はいないのだと、否応なしに再確認させられた。そして、あまのじゃくは損をする、ということも。

誰もがただのお客のひとり、だから居心地がいい

20代半ばに無防備に足を踏み入れたベルクに、その後、一歩二歩と深入りさせてもらうことになるとは、よもや思いもしなかった。

店長の井野さん、副店長の迫川尚子さんが各々本を出した折には、書評を書いたり、刊行記念トークに出演させてもらったり、ずうっと途切れることなく関係は続いている。

ただ、私の行きつけといえる店の中でも、ベルクはちょっと異質だなと思うのは、店を取り仕切る井野さん、迫川さんと常に直に言葉を交わしているわけではない、という点において。

ベルクに私が行くのは夕方以降がほとんどで、その時間帯には、朝一番に店に出ている井野さんも迫川さんも、すでにその日の仕事を終えていて、もういない。それでなくとも、ベルクでは、店の人とお客とがなにやら親密に話し込んでいるような風景は、ほぼ見られない。

なぜかといえば、カウンターで注文をして、代金と引き換えに食べもの飲みものを受け取るセルフサービス方式だからというのが大きな理由だ。

次から次へとお客の注文を受ける人の横にはビールを注ぐ人、背後にはソーセージを盛りつける人、みんな忙しく立ち働いている。

その背景を隠す壁は置かれていないから、働く人たちの活気がぐっと迫ってきて、常連風を吹かせる余地などなくなってしまう。

そう、ベルクでは誰もが、ただのお客のひとりなのだった。それでこそ居心地がよいという感覚は、存外、得難いものである。

さらにいえば、そこを営む人と顔を合わせなくとも、さみしくない。そういう店は他にない、かもしれない。

どうしてだろうと考えてみていたが、やはり過去の「ベルク通信」に、この店での過ごしかたの核心が書かれていた。

ちょこちょこ仕事おっぽりだして、家おっぽりだして、恋人もおっぽりだして、ベルクでコーヒーでも一杯やって行って下さいませ。誰にも構わず構われず、遠慮なしにブルーな気分に染まって行って下さいませ。

常日頃のしがらみを切断するとまでいかなくとも、コーヒー一杯のあいだはせめて中断していてもよいのでは、という提案は、今読むとよりいっそう目新しいものとして受け取れる。

もちろん、ブルーの底辺に落ち込む前に、コーヒーの香りや他のお客の気配、お酒の味、パンの味、小さく流れる音楽その他もろもろ、ベルクを形成するもののいずれかが、すっと掬い上げてくれるはずだし。

私が東京に出てきてからの年数から1年引くと、ベルクに通った年数になる。

1990年7月25日に今のかたちではじまったベルクは、今夏で29周年を迎える。
 

ライター紹介

木村 衣有子
木村 衣有子
文筆家。1975年栃木生まれ。2002年より東京在住。主な守備範囲は食文化と書評。主な著書に『味見したい本』『もの食う本』(ちくま文庫オリジナル)、『はじまりのコップ 左藤吹きガラス工房奮闘記』(亜紀書房)、『コーヒーゼリーの時間』『コッペパンの本』(産業編集センター)などがある。リトルプレス『のんべえ春秋』編集発行人。埼玉西武ライオンズファン。
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