私の心の真ん中にあるショートケーキの話

ケーキの箱を前にして、「これ開けていい?」と、母に聞く瞬間がなによりも好きだった。

母が「いいよ」と言い、「じゃあ開けるね」とわざわざ宣言して箱を開けると、中にぎゅっと詰まっているケーキは、決まって宝石みたいに艶めいて光っていた。

母が買ってきてくれた「ルージュ」の記憶

母は人をもてなすのが好きで、よく家に客を招いた。小学校から帰ってくると、だいたい週に2日くらいは玄関に知らない人の革靴やハイヒールが並んでいて、人見知りのひどかった私はそれを見るたびに憂鬱な気持ちになった。

けれど同時に、その人たちが帰ったあとのことを考えるとウキウキもした。母は来客があると必ずお茶菓子を出す人だったから、誰かが家に来ているということは私にとって、冷蔵庫の中になんらかのお菓子があるという合図でもあったからだ。

客が帰った音を聞きつけてから私が2階から客間に降りていくと、母はいつも「なんで挨拶しないの」と一応の小言を並べてから、「冷蔵庫に甘いものあるよ」と言った。

母の言う“甘いもの”は、季節によってゼリーやプリン、それから和菓子だったりもしたけれど、近所のケーキ屋のケーキであることがいちばん多かった。

お店の名前は「フレンチパウンドハウス」。母はいつも4~5種類のケーキを買ってきて、どれを食べたいかを選ばせてくれた。

いま思えばすごく贅沢なことなのだけれど、たぶん母は食物アレルギーが多い子どもだった私に、ケーキくらいは好きなものを食べさせたいと考えていたのだろう。

箱の中のケーキは日によってばらばらだったけれど、ショートケーキの「ルージュ」だけは絶対に選んでもらうよう、母に頼んでいた。

そのお店には、「ルージュ」と「ブラン」という2種類のショートケーキがあった。一見まったく同じケーキなのだけれど、「ルージュ」は生クリームが星型の口金で絞られていて、「ブラン」は丸い口金で絞られているというささやかな違いがある。

シンプルなショートケーキである「ブラン」に、苺の果汁や香りづけ程度のお酒を加えたものが「ルージュ」で、私は特にその「ルージュ」がお気に入りだった。

「ブラン」と比べると「ルージュ」はほんの少しピンクがかった色をしていて、子どものころはたぶん、その“色“と“お酒を使っている”という肩書きの大人っぽさに惹かれていた。

箱を開けると、まず最初に「ルージュ」を選んで、それからもうひとつだけ食べたいケーキを選ぶ。

お寿司も蕎麦もラーメンもアレルギーで食べられなかった私にとって、ケーキを自由に選ぶ時間は、何物にも代えがたい至福のときだった。

華やかなパティスリーを渡り歩いた日々

小さいころに食べすぎたものは大人になってから苦手になる、という話を人からよく聞くのだけれど、私の場合はまったくの逆だった。

大学生になった私は、少しずつ食べられるものが増えてきていたはずなのに、幼いころに増してケーキばかり食べるようになっていたのだ。

原因はおそらく、ひと言で言ってしまえばストレスだった。

初めてのアルバイトに苦手な接客業をうっかり選んでしまったのに加え、詳細は省くけれどわりとロクでもない恋愛をしていて、毎晩家に帰ってくると倒れ込むように眠ってしまう日が続いていた。

だからたぶん、しんどい日常を乗り切るために、気分をほんの少し上向きにさせてくれるなにかが必要で、私にとってそれはケーキだったのだ。

どれだけ疲れて気持ちが沈んでいる日でも、ケーキ屋のショーウインドウの前に立つときだけは胸が高鳴った。

色とりどりのケーキが、いちばん美しい面を前にしてガラスの向こうにしゃんと並んでいる。それを見ていると「私もまだ大丈夫だ」と、心から思えた。

アルバイトのおかげでお小遣い程度のお金はあったから、「どうせなら東京じゅうのいろんなケーキを食べてみたい」と思い、いろんなお店を渡り歩いた。

自由が丘や銀座、表参道のような華やかな街には、その街に似合う華やかなパティスリーがたくさんあり、いつの間にか「フレンチパウンドハウス」からは足が遠のくようになっていた。

「近所なんだしいつでも買える」と考えたら、わざわざ行く理由がないように思えてきてしまったのだ。

感激するほどのショートケーキを求めていた

社会人になり、気づけばケーキ屋めぐりは私のいちばんの趣味になっていた。

都内なら100店舗くらいのパティスリーでケーキを食べたし、もっとも熱心だった時期には、ケーキのためだけに関西まで足を伸ばしたこともある。

クリスマスや誕生日には、たくさんのお店のカタログからいちばん心惹かれるホールケーキを選んで予約した。

ケーキの上に乗せられた砂糖菓子やフルーツの飾りは、飽きずにいつまでも眺めることができたし、見た目が美しいケーキをSNSに投稿するとたくさんのリアクションがもらえることにも、正直に言えばちょっとした喜びを感じたことがある。

趣味でケーキの写真を載せていたTwitterアカウントのフォロワーも、気づけば1万人を越えようとしていた。

チーズケーキ、タルト、ガトーショコラ、どんなケーキも好きでよく食べたけれど、初めてのお店に足を運ぶときにひとつだけ決めていたルールがある。

それは、「最初に食べるのは絶対にショートケーキ」というルールだ。

ショートケーキの美味しいお店は他のケーキも美味しいという持論があったし、私にとってショートケーキはすべてのケーキの原点のようなものだったから。

初めてのお店で買ったショートケーキにフォークを差し込む瞬間は、いつもドキドキしたし、評判のいいお店のショートケーキは当然美味しいのだけれど、感激するほどの出会いはあまりなかった。

「美味しいけどスポンジのぱさつきが気になるな」とか、「ちょっと生クリームが甘すぎるな」と生意気な感想を抱きながらケーキを食べ終えるたび、決まって頭によぎるのは「ルージュ」のことだった。

10数年ぶりに、けれど初めて食べた「ルージュ」

実家のある街にはさしたる愛着もなかったから、恋人との同棲が決まって実家を出ることになったときも、さみしいとはそんなに感じなかった記憶がある。

私は25歳を迎えようとしていて、一時期はあれほど入れ込んでいたケーキの食べ歩きも、気づけばもういちばんの趣味とは言えなくなっていた。

新しく住むのは実家から1時間ほど離れた静かな街だった。

引っ越しの少し前、新しい家の近くにも業務用スーパーやファミレス、本屋があることを確認してホッとしたあと、「あ。でも、これからはもうフレンチパウンドハウスの近くには住めなくなるんだ」と不意に気づいた。

そして、どうせなら25歳の誕生日には「ルージュ」をホールで予約しよう、と決めたのだ。

「ルージュ」のホールケーキを食べるのは初めてだ。

誕生日を迎えた日の夜、実家の冷蔵庫から白い箱をとり出して「開けていい?」と母に聞いた。「あんたが自分で買ってきたんでしょ」と苦笑いされて、「そうだね、開けるね」と言ってから箱の蓋を開いた。

銀色のトレーを慎重に手前に引くと、目の前に現れたのはあまりにもシンプルな、けれど美しいショートケーキだった。先端にベリーソースをちょこんと乗せた苺が行儀よく並び、星型の口金で絞られたホイップがその周りをひかえめに取り囲んでいた。

ケーキをお皿に移して台所の灯りの下に持っていくと、クリームが淡いピンク色をしているのが見えた。

それを見た途端、「ああそうだ、この色!」という気持ちで胸がいっぱいになってしまい、しばらく写真も撮らず、包丁を持ったままぼんやりとケーキを見つめ続けた。

ケーキを大きめにカットし、ひと口目を口に運ぶ。

生クリームの甘さ、スポンジからほんのりと香る洋酒、苺の酸味。すでに知っている味だけれどそれがあまりにも完璧で、心の底から安心する味だった。

そして同時に、「そうか。私はいろんなお店でショートケーキを食べるたび、ずっとこの味と比べてしまっていたのか」と気づく。

苺を頬張りながらちょっと泣いてしまって、「あんたここのケーキそんなに好きだったの?最近ぜんぜん行ってなかったじゃない」と、母に驚かれた。

そのとおりだ。でも、私はこのケーキのことがずっといちばん好きだったんだと、このとき思い出した。

新しい街に住み始めてからほどなくして、残念なニュースが耳に飛び込んできた。実家の近くにあったフレンチパウンドハウスが、2018年末で閉店してしまったという知らせだった。

母からそれを電話で聞いたときは心臓が凍るような思いをしたのだけれど、巣鴨にあるもうひとつの店舗は変わらずに営業を続ける、と聞いてホッとした。

新しい家から巣鴨はちょっと遠いけれど、それでも月に1度くらいは、その店舗に足を運ぶようになった。

ケーキの写真を載せていたアカウントの更新は数年前にやめてしまったから、フレンチパウンドハウスでケーキを買ってきても、それを誰かに見せるわけではない。

でも、すごく疲れた日やしんどいことがあった日には、「今日はもうルージュ食べて寝ちゃおう」と思いながら巣鴨で電車を降りる。

ショーウインドウの前で最初に「ルージュ」を選んで、それから好きなケーキをもうひとつかふたつ選ぶ。

宝石みたいなケーキの入った箱を右手に持って夜道を歩くその時間が、いまの私にとっては間違いなく、いちばんの幸せな時間だ。

ライター紹介

生湯葉 シホ
生湯葉 シホ
ライター・エッセイスト。1992年東京都生まれ。 酒、洋菓子、生湯葉が好き。 共著にエッセイ集『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。
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