大塚駅北口から徒歩2分の場所に、おにぎり専門店『ぼんご』がある。店内はカウンター席のみ。まるで寿司屋のように、目の前でおにぎりを握ってくれるスタイルが人気で、いつも行列ができている。
「いらっしゃい!」
元気よく出迎えてくれたのは、1960年開業の『ぼんご』で2代目を務める右近由美子さん(67)。おにぎり一筋でほぼ休みなく働いてきた由美子さんは、これまで実に640万個以上のおにぎりを握ってきた計算になる。
なんて途方もない数字だろう。しかし、由美子さんは「全然すごくないですよ。私は一つのことを続けてきただけ」と笑いながら話す。
率直に、「なぜ、続けてこれたんですか?」と聞きたくなった。そのためにはまず、由美子さんと『ぼんご』のこれまでを聞く必要があるだろう。
元々は常連客の一人だった
ーー由美子さんと『ぼんご』の出会いって何だったんですか?
「私は新潟市出身で、新潟の会社で働いていたのですが、厳格な父のことがとにかく嫌いで嫌いで仕方なくて…。それで二十歳になる数日前に家出をして、東京にやってきたんです。ツテも何もなかったのですが、上野の喫茶店で雇ってもらえることになって、寮生活をして暮らしていました」
ーー新潟ご出身だったら、お米にはうるさいですね(笑)。
「そうそう。おいしいごはんになかなか巡り会えなくて困っていた時に、友人に連れてこられたのが『ぼんご』だったんです」
「後に私の夫となる、右近祐(たすく)が開業した当時は、いまとは別の場所にお店があってね。私が初めて行ったのも移転する前のお店。赤提灯が店前にかかっていて、入る前は居酒屋かなと思ったんですが、入ったらこじんまりとしたおにぎり屋でした」
ーーへぇ、赤提灯のあるおにぎり屋さんだったんですね。
「今でも覚えていますが、炊きたてのコシヒカリを使った大きなおにぎりが本当においしかった。それから今はメニューにないんだけど、当時はナスのおしんこがあってね。田舎の味に飢えていたので、こんなに美味しいおしんこがあるんだって感動して、よく通うようになったんです」
ーーじゃあ初めは、お店に通う常連さんの1人だったんですね。
「はい。昔はおにぎりの種類は24~25種類しかなかったと思いますが、青じそとか、うにくらげとか、おいしくてね。高菜を初めて食べたのは、『ぼんご』でした。しょっちゅう通っていましたね。
いつも自分が食べた後に5つぐらい持ち帰るから、あいつは独り身じゃないぞって噂されていたみたいです(笑)」
ーー5つも!それは確かに独り身には見えないですね(笑)。祐さんとはいつ頃ご結婚されたんですか?
「24歳の時です。主人からの猛アタックでした(笑)。27歳も離れていたので、最初は父親くらいに思っていたんですけどね。
主人は本当に優しくて、何も知らない小娘である私に、社会のこと、商売のこと、人間関係のことなど、いろんな話を聞かせてくれました。いまの私があるのは、主人のおかげです」
握りを担当するようになったのは突然だった
ーーご結婚されて、お店を手伝うようになった。
「はい、でも最初は全然やる気がありませんでした」
ーーえ、なぜですか?
「おにぎりは好きだけど、作りたいのではなくて、お客さんとして食べるのが好きだっただけだからです(笑)。作り始めてしばらくは、お客さんが羨ましくてしょうがなかったですよ。たくあんに唐辛子をかけて食べている人や、おいしそうにおにぎりを食べている人を見ていると、いいなぁって」
ーーなるほど(笑)。
「皿洗いから始まって、ちょこちょこ店に立つようになりました。30歳ぐらいの時かな。当時は主人の弟も握りをしていたんですけど、ある日『ちょっと歯医者に行くから代わりにやってくれ』と言われて。そんなの、いきなりできるわけないじゃないですか。でも、それから握りも任されるようになって、胃に穴があくぐらいストレスを感じていました。
ーープレッシャーですね…。
「お客さんの視線って分かるじゃないですか。『あんた昨日まで皿洗ってたでしょ』って(笑)。だから最初は顔を上げられませんでした。
大変だねと同情はしてもらいますよ、でもまずいものはまずいですよね。同じ食材を使っているのに、全然違うものになってしまうんです」
「『お前の味噌汁はまずい』とはっきり言われたこともあります。その通りだろうなと思いました。いままで何も勉強してこなかったわけですから」
ーー手厳しいですね。そこからどう改善していったのですか。
「それはもう、数をこなすしかなかったと思います。お客さんの話を聞きながらあれこれ試しているうちに、半年ぐらい経って『うーん、ちょっと上手になったね』と言われるようになって。
うちのお客さんは口は悪いんだけれど、なんて言うんだろう。守って、育ててくれるお客さんなんです。地元に昔から住んでいらっしゃる方が多くて、親子で3代4代と来てくださっている方もいるんですよね。みんな、優しいんです」
納得できるおにぎりを握れるようになるまで、10年かかった
ーー顔を上げてお客さんの顔を見れるようになったのはいつ頃ですか?
「おにぎりを握り出して10年ぐらい経ったころですかね。ちょっと自分で納得できるような仕事ができたんです。何がそうさせたかははっきりしないけど、ある日突然、全部がちょうどいい時があって。そのときになって初めて、お客さんの顔が見れるようになりました」
ーー10年ですか…。納得できるおにぎりが作れるようになるまでは、裏で研究されていたんですか?
「研究どころではないですよ。どれだけ働いても間に合わなくて、毎日追われる日々です。定休日も仕込みに来ていたので、冗談ではなく365日毎日店にいました。当時は自慢をしていたんですけど、いま思うとこれは自慢にならないですよね。休みもなく仕事をしに来るというのは、自分の能力のなさだと思います。だから、主人が亡くなってからは、定休日の日曜日だけは休もうと決めましたけどね。
主人が病気で倒れてからの10年間くらいは、介護をしながらお店に立ち続ける生活をしていましたので、あの頃が一番大変な時期でしたね。本当に出口が見えないトンネルの中にいるような感じで、いつまで続くんだろうと思いながら働いていました」
ーーそれでもお店を休まなかったわけですよね。
「基本的に休みませんでしたね。主人が亡くなった日も、葬式の日もお店は開けました。自分が怪我をしたり、米不足で米の価格が上がったり、振り返ればいろいろありましたが、それでも続けてきました」
ーーおにぎりは、1日にどれぐらい握ってこられたのですか?累計すると、かなりの数になりますよね。
「そうね…1日700個ぐらいは握っていたかな。30歳ぐらいの時に握り始めて、年300日、20年として…」
ーー420万個ですよ。
「そこから夜の握り手さんが入ってきて、1日500個ぐらいになって…」
ーー500個を年300日、15年間としても225万個。計645万個…!改めて計算するとすごい数です。
「私、そんなに握ってたんだね(笑)」
由美子さんが続けてこれた理由
ーー単刀直入に聞かせてください。なぜ、ここまで続けてこれたのだと思いますか?
「(しばしの沈黙)」
「…うん…たぶん、私にとっておにぎり屋さんは、やりがいのある仕事なんでしょうね。お客さんに美味しいものを食べてもらいたいという気持ちもあるけど、それ以上にお客さんからもらえるものが多いんですよ。
私が元気でいられるのはお客さんのおかげです。だから、お客さんと接していたいんだと思う。これまで私は、仕事としてお金を稼ぐ手段としてやっていたけど、いまは完全に違います。お客さんに元気をもらうためにやっているんです」
ーーだから、今もお店に立ち続けていらっしゃる。
「いまは握り手を担う従業員がいるのでぼちぼち引退しようと思っています。従業員は、技術的にはもう私を越えていますよ。でも、お客さんは顔を見て安心する部分もあるでしょう?私は、 このお客さんは夏でも冷たいお茶を飲まないとか、筋子をよく食べるとか、お客さんのことをなるべく覚えて、サービスをしています。
だって、大塚だけでもたくさんの飲食店があるわけですよ。その中でうちを目指してきてくれること自体がすごいこと。それだけでも感謝しなきゃいけないと思っています。その感謝を示すために、おいしいおにぎりを提供することはもちろんだけれど、心のサービスも大切にしなきゃと思って。
おにぎりってすごく難しいんです。同じ条件で握っても、やる人が違うと違うものが出来上がるから。米もナマモノだから、水に浸ける時間とか精米からどれぐらいの時間が経ったかで、変わるんです。『あ、今日ちょっと塩違うでしょ』『いつもより固めに握ったね』。お客さんにはすぐ読み取られてしまいますね。
インタビューが終わったあと、いまはほとんど握っていないという由美子さんに、特別におにぎりを握ってもらった。注文したのは、由美子さんの思い出の味である「うにくらげ」「高菜」「青しそ」の3つ。
ぼんごのおにぎりの特徴は、ほとんど「握らない」こと。ふっくらした米粒を、一粒一粒感じられるようにするためだ。
「できたよ」。2分足らずで、出来立てのおにぎりが目の前に現れた。
あふれんばかりの具、ふわふわのお米、しっとりとした海苔。おいしい。このおいしさの裏には、店を続ける覚悟、お客さんへの愛が詰まっているのだろう。
由美子さんとお客さんたちは、このおにぎりを通して互いに支え合っていたんだと感じた。
「また、いつでも来てね」。そんな帰り際の一言がうれしい。好きな店がまた1つ増えた。
- おにぎり ぼんご
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東京都 豊島区 北大塚
和食