誰しも、人生で一番美味しかった料理がある。
味はもちろんのこと、共にいた仲間。感じた想い。交わした言葉。目にした風景…。様々なことが重なり合って、美味しい想い出を創り上げている。
そんな、忘れられない最高の料理を語る番組『人生最高レストラン』。これは当番組で紹介された一品を、ライター松浦達也が実際に食し、その想い出を追いかけた記録である。
ライター紹介
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松浦達也
- ライター/編集者。「食べる」「つくる」「ひもとく」を標榜するフードアクティビストとして、テレビ、ラジオなどで食ニュース解説を行うほか、『dancyu』から一般誌、ニュースサイトまで幅広く執筆、編集に携わる。著書に近著の『新しい卵ドリル おうちの卵料理が見違える』ほか『家で肉食を極める!肉バカ秘蔵レシピ 大人の肉ドリル』(ともにマガジンハウス)など。
何年か前、知人の医師から「心が疲れているときは、鍋料理や焼肉がいい。目の前に炎を感じながら、温かいものを食べると人は癒される」と聞いた。以来、落ち込むような失敗をしたときは鍋料理か焼肉を食べることが多い。
ただしこういうときの店選びは意外と難しい。体調が悪いときの焼肉は、肉の力強さに気圧されそうになることもある。鍋物を食べるにしても、ガツンとパンチのある鍋で強引に自分を奮い立たせるのか、やさしい鍋に癒してもらうのか。
心と体に相談しながら選ぶことになるが、食べてみないとわからないときもある。
そんな緊急事態に、逃げ込む先として鴛鴦火鍋はちょうどいい。「鴛鴦」は音読みなら「えんおう」、訓読みなら「おしどり」と読む。対の意味を持つオシドリに見立て、ひとつの鍋をふたつに仕切り、違う味を楽しむことができる鍋だ。
麻辣味の刺激的な味と、白湯や清湯といった穏やかなスープの2種類で構成されることが多い。
広尾の『四季火鍋 花椒庭』の火鍋もこのタイプ。中央を太極の「陰陽」に見立てた仕切りのひとつは薬膳にも通じる辛味の効いた四川風。もう片方が干し海老と干し貝柱ベースの清湯(ちんたん)仕立てのスープという構成だ。ひとつはきっちり刺激的、他方はホッとするようなやさしさでできている。
小難しいことは考えずに、好きな方に具を入れながら味を組み立てていく。どちらに何を入れようか迷っても、気分で投入すればいい。この店の火鍋における最終的な味の決め手はこの先にあるからだ。
煮込んだ具材やスープをくぐらせた肉の味を決定するのは2種類のタレだ。とりわけ特徴深いのは、生卵に芝麻醤(練りごま)とXO醤をスープで伸ばしたもの。たっぷりの青ねぎが散らされ、食べ手の好みでパクチーを追う。
ただひたすら癒やされたければ、清湯→卵黄ダレというパターンからスタートすればいいし、気合を入れるなら辛いスープから辛いタレへと展開してもいい。
清湯から辛いタレへと展開すれば、背筋の伸びるようなスッキリした辛味になるし、辛いスープから卵黄ダレへと展開すれば辛味と分厚いコクのしっかりした味わいが"満足中枢"を満たしていく。
「人生最高レストラン」では、この火鍋を『人志松本のすべらない話』の打ち上げで使うという千原ジュニアさんが紹介していた。トークが不出来だったときには「(この店の鍋が)辛いのに味せえへんときがある」というくらいに落ち込むことがあるという。滑り倒した仲間のなかには「まったく箸が動いていない芸人もいる」という。
「まず飯を食え。話はそれからだ」と最初に言ったのは誰だったか。「生きるために食べよ。食べるために生きるな」(ソクラテス)、「食欲は食べているうちに出てくるものだ」(フランソワ・ラブレー)と例えられるほど、食べることの重要性を説く名言はあまたある。
心が弱っているとき、手段を選んでいる場合ではない。まずは口をつける。そして食べる。肉でも野菜でも海鮮でもいい。少しずつ食べ進め、〆の卵麺にたどり着く頃には顔を上げることができるはずだ。この鍋は前を向くための鍋である。
- 花椒庭
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東京都 港区 南麻布
中華料理