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連載:進化し続ける食メディアの変遷

グルメ界が激変した「益博」登場!そしてバブルによって食とメディアはどう変わったのか

2017年。食にまつわる情報はいたるところに溢れています。WEBメディア、個人の投稿、雑誌、ムック、本、テレビ…。

自身も長年食メディアに携わり、そして様々な食メディアに精通している柏原光太郎さんの食メディアの歴史を紐解く「食メディアの歴史と未来」シリーズを3回に分けてお届けします。

来る2018年。変わり続ける食メディアは、この先どう変わっていくのでしょうか。

ライター紹介

柏原光太郎
柏原光太郎
1963年東京生まれ。出版社でグルメガイドの取材、編集などをするうちに料理の魅力にはまり、フジテレビ「アイアンシェフ」評議員なども務める。「和の食と心を訪ね歩く会」主宰、「軽井沢男子美食倶楽部」会長。2017年12月よりRetty TOP USER PRO。

グルメ業界が激変!「益博」のインパクトとは

『東京・味のグランプリ200』(講談社、1982年刊)とともに現れた山本益博さんは、料理評論家というジャンルを新しく開拓した人であり、「益博以前、益博以後」といわれるほど、グルメ業界を一変させた人でした。

これまでのガイドは、マスコミや有名人が選んだだけで、選定の経緯はわかりませんでしたが、山本さんは店の選定基準と味の評価基準を明らかにして200店を選び、格付けするという、いまでこそ当たり前に思われるかもしれませんが、当時は誰もやったことがないことを行ったのです。

当時、山本さんは34歳。

<ガイドブックは単なる紹介による情報紹介だけでなくひとつの主張をつらぬく使命があると考えるからです>

この決意のもと、「有名人やマスコミが推薦しているからといって、すべておいしい店であるわけではない」として、これまでのグルメガイドで好意的だった店をばっさりと切り捨てました。

「(寿司につける)甘いツメなどコクのないドロミがついていてとてもいただけない」
「(そば)つゆはそば湯を加えても飲めた代物ではなかった」
「こんなまずい動物のえさのような豆のてんぷら」

など、散々な言い回しでしたが、これまでのガイドがほめ言葉しか書いていなかっただけに、とても斬新な内容でした。

私も同時代にこの本を読みましたが、かつて美味しいと思っていた店が全否定されていたり、知らなかった店が三つ星になっているのを驚きながら読んだのを覚えています。

「すきやばし次郎」「みかわ」といったいまは神格化されている名店も、山本さんがこの本で好意的に評価してからのことだったと思います。

山本さんは翌83年にはフランス料理に特化した評価ガイド『グルマン』も上梓し(見田盛夫さんとの共著、新潮社刊)、料理評論家としての名前を確立し、テレビからも引っ張りだこになりました。

厳しい評価の店、槍玉に挙げられたマスコミからは反発も多かったと聞きますが、評価基準がしっかりしているだけに既存のグルメガイドも戦略の建て直しを余儀なくされます。

たとえば『東京いい店うまい店』は、かつては食通の有名人からの推薦で決めていたものを匿名の美食探偵が東京中を食べ歩いて選考するかたちに変えました。

つまり、既存の権威だけで料理店を評価するというシステムが否定され、一変したのです。

「究極」を求める男性メディア、「トレンド」に向かう女性メディア

同時期、漫画の世界でも同じような偶像破壊が行われました。「美味しんぼ」の登場です(1983年から連載開始)。

「究極のメニュー」作りを命じられた東西新聞の記者がさまざまな確執を乗りこえ、メニューを決めていくという内容ですが、これまでの常識が毎回覆され、いかにこれまで「名前」で食べていたのかが白日のものとなる漫画で、85年から単行本化されると、翌年に「究極」が流行語大賞になるなど、大ブームになったのです。

こうした書物の影響を受け、「料理オタク」たちが次々と生み出されますが、彼らにとってフレンチや究極の料理はハードルが高すぎます。

そこで彼らが実際に向かったのはエスニックやB級グルメで、ベトナム、タイ、台湾などの料理を紹介する単行本や「B級グルメシリーズ」(文春文庫)などがこの時期、相次いで出ています。

ただ、こうしたブームはどちらかといえば男性対象のものですが、この世代の消費を牽引したのは女性でした。

雇用機会均等法(87年)もあり、80年代は女性の社会進出が活発化するとともに、これまで男性に連れて行ってもらうレストランに、自分たちで行くようになった時代でもありました。

そのあたりの事情をうまく描写したものに田中康夫『なんとなくクリスタル』(1981年、河出書房刊)がありますが、そうした女性のバイブルといわれたのが、88年に創刊された「Hanako」でした。

「キャリアと結婚だけじゃイヤ」とのスローガンで、松田聖子ばりのなんでも欲しい20代後半のキャリアウーマンをターゲットとした雑誌でした。料理ジャンルや地域ごとに100を超える店を紹介し、「Hanakoが紹介すると女性客が殺到し、予約が取れなくなる」と、いまの状況を先取りしました。

そのいっぽうで、「常連は逃げるし、Hanakoの客は一週間でいなくなり、雑誌に掲載された料理しか頼まず、アルコールを飲まない」と批判を浴びたりもしたものですが、男性対象の「食」が料理の中身に向かっていったのに対し、Hanakoが仕掛けたのは料理のトレンド化。

ティラミスやナタデココ、地中海料理などを世に広めたのはHanakoの功績だったと思いますし、バブル全盛期になると、その風潮は女性だけでなく、男女を問わず広まりました。

バブル全盛期にはグルメ消費も増加

その状況を描いたのが、ホイチョイプロダクションの『ミーハーのための見栄講座 その戦略と展開』(1983年、小学館刊)。

フランス料理店に初めていったときは、必ず店に置いてある「テリーヌとボージョレーを頼め」など、バブルではじめてフランス料理店を訪れる読者を揶揄しながらも、デートの手法を教えた本で、味とは関係ない戦略がデートには重要であるという論調は、当時の風潮を見事に喝破していました。

ホイチョイはその後、1994年に『東京いい店やれる店』(小学館)という、これまた味ではなく、「顔のいい女とセックスしたいと願うスケベな男性諸君に贈る、女を口説くための料理店のガイド」を出しました。

店を女性の「お股印」で格付けし、3つ股印は「東京が世界に誇る絶対にやれる店」という、ミシュランや東京いい店うまい店のパロディでしたが、この本は見栄講座とともにまさに当時の「食のトレンド化」を具現した本でした(ホイチョイは2012年に『新東京いい店やれる店』を出しましたが、明らかに実践度は低下していて、時代の差を感じさせました)。

こうしたグルメメディアの全盛の裏には、バブルで増えていったグルメ消費があります。

カフェバー、空間プロデューサー、イタめし、ワンレン・ボディコン、ディスコ、サーファー、ハマトラといった、バブルとともにトレンドとなり、消費された数々のワードがグルメと合致するようになったのです。

そして消費者は、これまでは数少ないメディアからの情報でしか知らなかった「美味しい店」を、たくさんのメディアの洗礼を受けることで、自らの意思でその中から選べるようになりました。

「食べるだけ」じゃない多様なアプローチ

そうなってくると、単に食べるだけでは満足できない層が出てきます。自分で作ってみたい、シェフがどうやって作るのかを知りたい、シェフの経歴をもっと知りたいといった欲求が生じてきたのです。

そうした背景で出てきたもののひとつが、「『食』こそエンターテインメント」を標榜した「dancyu」(プレジデント社、1990年)の創刊です。

ただ食べるだけでなく、厨房にはいって料理を作り、生産者を訪ねるといた食文化をエンターテインメント化した雑誌で、もともとは男性読者を想定していましたが、働いている女性読者も多く取り込んだといわれています。

私も創刊号を読みました。「食」というテーマに多様なアプローチを試みた媒体はこれまでにもありましたが、それを月刊誌として出せる時代が来たのか、と驚いた記憶があります。

そして、その多様なアプローチをテレビ的な手法で行ったのがフジテレビ系で放送された「料理の鉄人」でした。

「料理の鉄人」のコンセプトは「異種格闘技」。いまは信じられないでしょうが、当時はフレンチと中華のシェフが交流することなど信じられない時代だったのです。その「異種ジャンル」のシェフが特設のキッチンスタジオで対決して、しかも勝負をつけるなどということはさらにありえない世界でした。

私の周囲には当時、料理の鉄人立ち上げにかかわったクリエーターたちが多数いるのでよく話を聞きましたが、放送開始当初は、出演交渉をしても、「(和食の自分が)フレンチと対決するなんてありえない」「もし負けて店がつぶれたら、いったいどうしてくれるんだ」といった返答ばかりだったようで、いまは誰もが知っているスターシェフも、出演をしり込みしたといいます。

ところが番組がヒットしてからは、参加希望が殺到したというから、現金なものです。

全盛期には視聴率は20%を超え、子供の「将来なりたい職業」にシェフが入ったほどの人気番組。海外にもコンセプトが輸出され、「アイアン・シェフ」として世界に認知されたのです。

蛇足ですが、2012年にフジテレビはリメイクした「アイアンシェフ」を放送しましたが、番組は大コケしてわずか1クールで終了しました。

原因はさまざま分析されていますが、鉄人の当時はブームとはいえ料理人の情報はいまほどではありませんでしたが、アイアンシェフの時代になると視聴者のほうに情報が有り余るほどあり、いくら挑戦者を大々的にフィーチャーしても「あの挑戦者は食べログで3.20の人だから勝てないよね」などと驚きがなくなったからではないかといわれました。

とはいえ、テレビの影響は活字の比ではなく、この番組で料理人の地位は格段に上がり、有名シェフはメディアに登場し、スターダムへとのし上がっていったのです。

そして、鉄人の店、鉄人に勝った挑戦者の店を訪れようと有名店を訪れる客は多くなり、逆張りに「負けたけどうまい店」などといった企画も登場するなど、料理の鉄人の成功によって、グルメ情報はますます増えていきました。

ついに90年代、ネットの誕生!!

しかし、それはまだマスメディアの世界の話。1990年代後半にインターネットが出てきて、その情報量はさらに飛躍的に増すのです。その嚆矢は、1996年にサービスが開始となった「ぐるなび」と「askU 東京レストランガイド」でした。

当時はインターネットサービスは始まったものの、ADSLや光通信などなく、ネット接続は電話回線につないで「ピーヒャラヒャラヒャラ」という音で接続を確認した時代ですから、80年代から始まったクローズドなパソコン通信でグルメ情報を交換していた一部の好事家がネットに進出しはじめた時期。

そこにぐるなびがまず、飲食店向けにネットにホームページを立ち上げるサービスを始めたのです。

ぐるなびは、その出自から、いまでも飲食店のための使いやすいサービスを中心にビジネスを展開していますが、それに対して客同士が店の情報を交換しようという目的で始まったのが、東京レストランガイドでした。

いまではその名前を知っている人は数少なくなりましたが、レビュアーがお店の評価を投稿するグルメサイトで、ファーストペンギンだったがゆえにいろいろなトラブルを抱え、最終的には消滅してしまいます。

そして、この失敗を糧とし、東京レストランガイドの有名レビュアーも取り込み、大成功したのが「食べログ」だったのです。

80年代から90年代の日本はまさにバブルが起こり、頂点に達し、弾け、新しい動きが起こりだした時代。

「レストランへのきびしい評価を表明する」「日本料理とフレンチのシェフがコラボする」「ネットで不特定多数がレビューする」など、いまでは当たり前に行われていることも実は、この時代から始まったこと。

失敗もたくさんありましたが、こうしたさまざまな試行錯誤を経て、いまのネットの時代が生まれたのです。

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