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連載:たい焼き誕生史

たい焼きが「3次元化」した歴史的理由【たい焼き誕生史 vol.3】

【第3回】明治時代の文字焼

こんにちは。近代食文化研究会です。

たい焼きが誕生した歴史的背景について、文献から紐とく連載「たい焼き誕生史」の第3回となります。

【第1回はこちら】たい焼きにはたくさんの兄弟がいた
【第2回はこちら】200年前、江戸時代の「たい焼き」の姿

前回は、今から200年前に存在した、小麦粉生地を焼いて鯛や亀の形態模写を行う「文字焼」という屋台商売を紹介しました。これが亀の子焼やたい焼き、人形焼などの焼き菓子の先祖となります。

『風俗画報』に掲載された文字焼屋台(注1)

『風俗画報』に掲載された文字焼屋台(注1)

江戸時代の文字焼は、砂糖と小麦粉を混ぜて焼いた、甘くて固いクッキー状の焼き菓子でした。明治時代の文字焼も、江戸時代の文字焼と基本的には同じものです。

ただし、明治時代には文字焼職人の技術が向上して、江戸時代にはなかった三次元の文字焼が現れるようになります。

さらには、小豆餡を使うようになり、だんだんとたい焼きに近づいていきます。

『郷土史東京第三巻6号』に掲載された籠の鳥(注2)

『郷土史東京第三巻6号』に掲載された籠の鳥(注2)

これは明治時代の文字焼「籠の鳥」です。

「二寸位の高さのアミ状を焼き、丸めて籠として中に干菓子の鳥を入れてある。いずれも糸につけ、竹枝に吊るして持って歩けるようにしてある」(注2)

この文字焼き、円筒形の立体物なんです。しかも、糸で吊ってもひしゃげたり壊れたりしない、強固な構造をしているんです。

小麦粉を水で溶いて焼くだけで、こういった構造物を作り上げるのですから、当時の文字焼の技術が非常に高かったことがわかります。

もうひとつ、「おはち」という文字焼をご紹介します。おはちというのは、炊いたご飯を保存する木製の入れ物、お櫃(おひつ)のことです。

『郷土史東京第三巻6号』に掲載されたおはち(注2)

『郷土史東京第三巻6号』に掲載されたおはち(注2)

これも円筒形の立体物です。

「三寸高さ位の丸筒の中に、点滴を焼いた小粒を一ぱい入れて、蜜をかけて竹揚子を添えた「おはち」」(注2)

焼板の上に小さな水滴のように小麦粉生地を垂らして、米粒ひとつひとつを焼き上げるわけです。

そして、おはちの中に入れて蜜をかけて食べる。この蜜というのは、みつ豆にかける、あの黒い液体の蜜です。

蜜がもれないようにしっかりと底を塞いでいるわけですから、高い技術がないと作れない、見事な造形ですね。

さらに名人ともなりますと、更科堀井の竹籠に入った持ち帰り用の蕎麦、同じく竹籠に入った長命寺桜もちを、竹籠ごと再現したというのですから、小麦粉生地を焼くだけでどうやって作ったのか、今では想像すらつきません。

さて、明治時代になって文字焼に加わった材料に「小豆餡」があります。

それまでは小麦粉生地に砂糖や黒蜜を混ぜたり、焼き上がった後に黒蜜をかけるなどしていたのですが、小豆餡が材料に加わると、小麦粉生地で小豆餡を包むという発想が生まれます。

『郷土史東京第三巻6号』に掲載されたお柏(注2)

『郷土史東京第三巻6号』に掲載されたお柏(注2)

これはお柏(かしわ)。柏餅をまねしたと思われる文字焼です。

お柏は平たい小麦粉生地で小豆餡を包んだものですが、もう少しお金を出せば、亀や鯛の形に焼いた生地でアンコを包んでくれるはずです。

そのような例を、明治30年生まれの歌人、柴田宵曲が目撃していました。

「文字焼は駄菓子屋の店先にあったばかりではない。別に車を引いて売りに来るのがあった。これは飴細工やしんこ細工と同じく、注文に応じて何かを焼いてくれるのである」


「例えばまず細い線で亀の甲の輪郭を描き、その上から甲の全体にあたる溶液を流すと、前の輪郭は少し焦げているからはっきりする」(注3)

現在のパンケーキアートと同じ手法で、焦げ目の濃淡で亀を描いていたわけです。そして、柴田は次のように回想します。

「それに餡を入れて両面から焼いたような気がする」

亀の子を描いた生地で餡を包めば亀の子焼、鯛で包めばたい焼きと同じ物ができあがります。

文字焼職人はリクエストに応じて、餡を包んだ様々なデザインの文字焼を作っていたのでしょう。

鯛や亀は、江戸時代からの文字焼のモチーフでした。明治時代になると、これに小豆餡をはさんだ立体造形が作られるようになります。この文字焼をまねて作ったのが、明治30年代から隆盛した、亀の子焼やたい焼きなどの焼き菓子だったのです。

Shiro Sogaさんの投稿より

Shiro Sogaさんの投稿より

画像引用元:https://retty.me/area/PRE40/ARE129/SUB12902/100000016469/30785188/

さて、亀の子焼やたい焼きは、そのもの自体のアイディアは文字焼から借りてきたものですが、製法となると文字焼とはかなり異なります。

職人がひとつひとつ熟練の技術で作り上げる文字焼に対し、亀の子焼やたい焼きは鉄製の焼きごてという器具を使うため、職人の技術はさほど必要とされません。

この生産手法は、おそらく今川焼の系譜に連なるものではないかと思います。

次回 【第4回】今川焼とたい焼き では、今川焼の歴史とたい焼きとの関係について取り上げたいと思います。

【トリビア】お好み焼きの「くろんぼ」

以上、簡単に文字焼の歴史について解説してきましたが、詳しくは拙著「お好み焼きの物語」を参照してください。

200年前、江戸時代から存在した文字焼の屋台ですが、大正時代になるとその数を急激に減らし、昭和に入るとほとんど消えてしまいます。

しかし、文字焼屋台は消滅したわけではありませんでした。先ほど登場した明治30年生まれの歌人 柴田宵曲は、次のように述べています。

「文字焼の名はいつか遺却され、お好み焼へと名を変えて存在している」(注3)

文字焼職人たちは廃業したわけではなく、お好み焼き屋へと転職していったわけです。

お好み焼きとたい焼き、人形焼は、文字焼を起源にしているという共通点があります。兄弟のようなもの、と言ってよいかもしれません。

もっとも、文字焼の血を濃く継いでいるのは、たい焼きではなくお好み焼きのほうです。

文字焼発祥の地であり、すなわちお好み焼き発祥の地である東京の老舗お好み焼き屋には、文字焼の伝統を受け継いだメニューがあります。そのひとつが、あんこ巻きです。

現存する東京最古のお好み焼き屋「浅草染太郎」には、あんこ巻きというメニューがあります。ご覧のとおり、文字焼の「お柏」そのものです。

Chigusa Yokooさんの投稿より

Chigusa Yokooさんの投稿より

画像引用元:https://retty.me/area/PRE13/ARE9/SUB902/100000018275/655387/

昭和26年創業、人形町にあるお好み焼きの老舗「松浪」にもあんこ巻きが存在します。

そしてもうひとつ、明治時代の文字焼の影響を色濃く残したメニューがあります。それが「くろんぼ」です。

大正6年に浅草千束町に生まれた井上滝子さんは、子供の頃にお好み焼き屋台で食べた「黒んぼ」について、次のように語っています。

「黒んぼはメリケン粉にあんこを入れたもの。それを混ぜて焼いて蜜をかける」(注4)

松浪のくろんぼは、黒蜜こそかけませんが、小麦粉生地に小豆餡を混ぜて焼く点においては、100年前の「黒んぼ」となんらかわりません。

このくろんぼ、ガルパンで有名な茨城県大洗町の「ほそのや」のメニューにもあるそうです。

文字焼の伝統は、かすかではありますが、いろいろなお好み焼き屋に受け継がれているのですね。

ところでなぜ、この褐色の焼き物は「くろんぼ」という名前で呼ばれるのか。

その命名理由について書かれた資料はないのです。名前の由来については、みなさまのご想像におまかせいたします。

ライター紹介

近代食文化研究会
近代食文化研究会
明治時代から昭和初期までの「食文化史」を主に研究。「お好み焼きは大阪や広島ではなく、東京で誕生した?」調査期間5年以上、調査資料2500冊以上、執念の調査で紐といた『お好み焼きの歴史』が新紀元社より好評発売中。

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【出典】

(注1)『風俗画報』明治28年4月号「市中世渡り種」
(注2)『郷土史東京』第三巻6号「東京回顧十四」宮尾しげを
(注3)『柴田宵曲文集第五巻』 明治の話題
(注4)『近代庶民生活誌18』 下町 南博編集代表

*画像の引用に関する責任は、Retty株式会社に存在します

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