【第1回】たい焼きにはたくさんの兄弟がいた
こんにちは。
明治時代から昭和初期までの食文化史を主に研究している、近代食文化研究会と申します。
「お好み焼きの物語」という、お好み焼きの歴史本を書いています。こちらもぜひ読んでみてください。
さて、今回のお話は、東京都港区三田からはじまります。三田といえば、慶應義塾大学のキャンパスがあり、グルメで思い浮かぶのが「ラーメン二郎 本店」です。
このラーメン二郎、私の専門分野である明治時代にはもちろん存在しません。
明治の中頃の慶應義塾生徒が夢中になっていたグルメは、「亀の子焼」という焼き菓子でした。
「明治の中頃から芝田村町にある亀の子焼屋は非常に繁昌して有名な店だった」
「三田の慶応義塾などの生徒のあこがれの的だった」
この2つは、角田猛という人の回想にある、明治30年代前半のお話の引用です(注1)。
亀の子焼とは何かと言うと、たい焼きの形が鯛ではなく、亀の子になっている焼き菓子です。
というか、その登場は亀の子焼が明治30年代前半、たい焼きが30年代後半(注2)になりますから、亀の子焼のほうが先輩になります。
「亀の子焼をまねて、鯛の形にしたのがたい焼き」といったほうが正しいかもしれません。
実は「◯◯焼き」は、亀や鯛だけではありません。同じ明治30年代には、縁日などに出る屋台に「軍艦焼」という焼き菓子がありました。
亀の子焼、たい焼きの軍艦版ですね。日清戦争に勝利したのが明治28年ですから、その時の戦勝気分が残っていたのでしょう。
こちらも明治30年代に流行った面形焼。焼き上がった形を見ると、おかめとひょっとこのように見えます。
どうやら人の顔の形をした、たい焼きと同じ焼き菓子のようです。
こちらは人形焼。人形焼といえば浅草名物ですが、浅草で売っている"あれ"は本物の人形焼ではないんです。
詳しくは、この文章の最後のほうにある【トリビア】のコーナーで解説します。
この屋台をよく見ていただくと、「神戸名物」と書かれていますね。人形焼は神戸発祥だったのでしょうか?
もっとも、東京にある「大阪名物 大阪焼」が大阪にないように、あるいは大阪にある「東京名物 東京コロッケ」が東京にないように、屋台の香具師(やし)の「〇〇名物」ほどあてにならないものはありません。
ただ少なくとも、明治の中頃の人々は、人形焼が浅草名物であるとか、東京の人形町発祥(そういう説があるのです)であるといった認識を持っていなかったようですね。
さて、人形焼を焼いている屋台の絵を見ていると、ホットサンドメーカーのような、柄のついた鉄製の器具で人形焼を焼いています。
現在でもたい焼き屋によっては「焼きごて」と呼ばれる、同様の器具でたい焼きを焼いています。下の写真は、池永鉄工様の南部鉄器製たい焼き器です。(注4)
この焼きごての凹んだ部分に水に溶いた小麦粉生地を流し、アンコを置いて、さらにその上から小麦粉生地で覆い、焼きごてをピタッと閉じて両面を焼く。
こちらは「鳴門鯛焼本舗 神田西口店」さんで、焼きごてを使ってたい焼きを焼いている様子です。
明治時代は、この器具を焼きごてではなく「両面型」と言いました。両面型という言葉の意味はいずれ解説します。
このように、明治30年代には亀の子焼や人形焼をはじめ、軍艦焼、面形焼、肖像焼、小判焼など、たい焼きの兄弟にあたる焼き菓子文化が、縁日の屋台などに一斉に花咲きました。
そのうち現在まで生き残っているのは、たい焼きと人形焼ぐらいのものです。これらは明治30年代に生まれた、縁日などの屋台で香具師(やし)が作る焼き菓子の、バリエーションのひとつに過ぎなかったのです。
たい焼きだけを特別にあつかって、「たい焼きはどこが元祖」「たい焼きはこうして生まれた」とする説は、意味がありません。
たい焼きだけではなく、軍艦焼や亀の子焼などを含め、「なぜ明治30年代に、様々な形の焼き菓子ブームが起きたのか?」その理由を明らかにしなければ、その中のひとつであるたい焼きの歴史も起源もわからないのです。
これから何回かに分けて、たい焼きや人形焼の歴史について説明していきます。
次回は、【第2回】200年前、江戸時代の「たい焼き」の姿 をお届けします。
200年前の江戸時代では、既に魚の形をまねた小麦粉生地の焼き菓子が焼かれていたのです。
これが、たい焼きの先祖となるのです。どうぞ、お楽しみに。
【トリビア】浅草の人形焼は、実は人形焼ではない
人形焼といえば、浅草の名物です。仲見世では、五重塔、提灯、鳩といった浅草寺ゆかりの形に焼いた人形焼を売っています。
下の写真は人形焼の元祖「木村屋」の人形焼です。
それにしても、おかしいとは思いませんか?なぜこれが「人形焼」なのでしょう。
たい焼きが鯛、亀の子焼が亀の子、軍艦焼が軍艦の形の焼き菓子ならば、人形焼は人形の形をしていなければならないはずです。
実は浅草名物のあの焼き菓子は、戦前は人形焼ではなく「名所焼」と呼ばれていたのです。それがいつの間にか、人形焼という名前に変わってしまったのです。
作家の久保田万太郎は、昭和2年に発表した『甘い物の話』のなかで、次のように語っています。
以前は、浅草に、特にこれという「浅草みやげ」はなかった。(中略)後にパン屋の木村屋あって「名所焼」と称するものを売りはじめた。在来の「人形焼」をただ、提灯、鳩、五重の塔、それぞれ観音さまに因みあるものに仕立たにすぎなかった
浅草名所の浅草寺にちなんだ五重塔、提灯などにちなんだ焼き菓子なので「名所焼」。これならば納得ですね。
久保田万太郎は、明治22年浅草生まれの浅草育ち。明治30年代以降に発生したこの種の焼き菓子に関する証言には信憑性があります。
というわけで、浅草の人形焼は本来は「名所焼」という名前なのでした。
ライター紹介
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【出典】
(注1)『東京の味』(角田猛著)より。角田猛は明治28年生まれ、海軍軍人角田秀松の息子。亀の子焼の話は、猛が小学校にあがる明治34年以前に兄たちから聞いた話。
(注2)読売新聞 明治44年9月20日朝刊記事「鯛焼の中毒五人」に5年間、つまり明治39年から営業しているたい焼き屋が登場します。
こちらのブログの筆者様が発見した記事です。
http://www.kotono8.com/2009/10/09taiyaki.html
(注3)『世渡風俗圖會』清水晴風著 国立国会図書館所蔵
(注4)池永鉄工様より写真提供 http://www.ikenaga-iw.co.jp/
(注5)『久保田万太郎全集第十一巻』P162
*画像の引用に関する責任は、Retty株式会社に存在します