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連載:たい焼き誕生史

たい焼きは「今川焼き」の何がどう進化したのか?文献から読み解く「たい焼き誕生史」

【第4回】今川焼とたい焼きの関係性

こんにちは。近代食文化研究会です。

たい焼きが誕生した歴史的背景について、文献から紐とく連載「たい焼き誕生史」の第4回となります。

【第1回はこちら】たい焼きにはたくさんの兄弟がいた
【第2回はこちら】200年前、江戸時代の「たい焼き」の姿
【第3回はこちら】たい焼きが「3次元化」した歴史的理由

前回は、明治時代に文字焼が立体造形へと進化し、小豆餡を包むようになり、後の人形焼やたい焼きとほぼ同じ形態が生まれたことを書きました。

『風俗画報』明治28年4月号に掲載された文字焼(注1)

『風俗画報』明治28年4月号に掲載された文字焼(注1)

文字焼が、職人がひとつひとつ熟練の技で焼く菓子である一方、明治30年代に現れたたい焼きなどの焼き菓子は、焼きごてで小麦粉生地をはさんで焼く、高度な技術は必要としない菓子です。

たい焼きが文字焼のものまねであったとしても、作り方はずいぶんと異なります。

「小麦粉生地を焼型にはめて焼く」という作り方からすると、今川焼の影響も受けていると考えるのが普通でしょう。

Akihiro Kosakoさんの投稿より引用

Akihiro Kosakoさんの投稿より引用

画像引用元:https://retty.me/area/PRE13/ARE9/SUB903/100000705496/3043077/

そこで今回は、今川焼のような「焼型で焼くお菓子の歴史」をたどってみます。

今川焼、地方や店によっては大判焼、回転焼など様々な名前でよばれる菓子が文献に現れるのは江戸時代のこと、文字焼よりすこし昔です。

1777年の『富貴地座位』江戸名物菓子之部に「今川やき 那須屋弥平 本所」として登場するのが、資料上の初出です。

『富貴地座位』(注2)

『富貴地座位』(注2)

ところが文字焼と異なり、江戸時代の今川焼についての情報は、実はほぼゼロなんです。どんな材料を使ってどう焼いていたか、まったくわかりません。

神田今川橋近くのお店で出したから今川焼だとか、最初は焼型で焼くのではなく、鉄板に金輪を置いて焼いていたとか、いろいろな俗説はありますが、それを裏付ける資料がないのです。

幕末に正体が明らかになった今川焼

こちらは幕末の風俗を描いた『街の姿』(清水晴風画)をもとにした、今川焼の屋台の絵です(三谷一馬による模写)。

『江戸物売図聚』(注3)

『江戸物売図聚』(注3)

6つのくぼみがある小さな鉄板で、今川焼を焼いています。この小さな今川焼が、2つで4文。

当時の子供のおこずかいが4文(これについては拙著『お好み焼きの物語』を参照してください)なので、この屋台は子供相手の駄菓子商売だったようです。

『世渡風俗圖會』に掲載された人形焼(注4)

『世渡風俗圖會』に掲載された人形焼(注4)

こちらは明治33年に流行した人形焼の屋台ですが、火鉢の向かって左側に、黒い小豆餡が入った容器と、小麦粉生地と柄杓が入った容器が計2つありますね。

ところが今川焼の屋台には柄杓が入った小麦粉生地の容器がひとつだけ。小豆餡の容器は見あたりません。

香具師(やし)が左手に握っているのは油を塗る刷毛のように見えるので、その下の容器は油を入れる容器のようです。

幕末の頃の今川焼には、小豆餡は入っていなかったのかもしれませんね。

さて、明治20年代になると「桃太郎焼」という菓子が現れます。これは文字焼と今川焼の合いの子のような焼き菓子でした。

明治18年東京生まれの青果商、藤浦富太郎は縁日の屋台における桃太郎焼を次のように描写しています。

「このぶどう餅の製法とは別なものに「桃太郎焼」というのがあった。昔はとこ店で今のようにガスや電気があるわけではなく炭火で、桃の形をした鉄鍋があって、そこへうどん粉を卵でといて、半ペラずつ焼く。その中にあんを入れて二つ合わせると桃の形になる。」


「これは、今の鯛焼の元祖みたいなものである。」

『明治の宵』(注5)

『明治の宵』(注5)

鉄鍋で1枚1枚、桃の形に焼いてははがして、2枚できたらそれで小豆餡をはさむ。

作り方は文字焼に似ていますが、焼型を使っているあたりは今川焼に似ています。文字焼と今川焼のハイブリッド、といったところでしょうか。

そしてこの片面ずつ焼いていた桃太郎焼が、明治30年代になると焼きごてを使って両面いっぺんに焼ける「両面型」に進化します。

そして、亀の子焼や人形焼、軍艦焼やたい焼きといった、様々な焼き菓子が次々と生まれるようになったのです。

こうやってみると、時代が下るにつれて、菓子の焼型が次第に複雑な形に進化していく様子が見てとれます。

幕末の今川焼は、小さな6つのくぼみがあるだけの焼型。

明治20年代の桃太郎焼は、桃という複雑な形をした「鉄鍋」。

そして、明治30年代にはたい焼きや人形焼などの、メカニカルな仕組みをもつ「焼きごて」。

これらの焼型は、鉄の鋳物によって作られます。

明治時代に入ってからの焼型の進化は、鉄の鋳物の製造技術が進化したことによってもたらされました。

進化だけではありません。進化しつつ、コストを抑えることも重要です。

なにせ、屋台の焼き菓子は小銭商売。たい焼きの焼きごてに、大金ははたけません。

鉄の鋳物がコストを抑えつつ技術進化したために、ちょうど明治30年代に、複雑な鉄の鋳物製品である焼きごてが、屋台の香具師(やし)にも手が届くようになったのです。

次回【第5回】日清戦争とたい焼きでは、明治時代の鋳物技術の発達と、コストダウンについて取り上げたいと思います。
 

【トリビア】たこ焼きによく似た「〇〇焼き(まるまるやき)」

明治24年に読売新聞で連載を開始した尾崎紅葉の『紅白毒饅頭』に、当時の縁日に並んでいた屋台が描写されています。

文字焼や今川焼とならんで、「まるまる焼」という屋台があります。

『紅白毒饅頭』(注6)

『紅白毒饅頭』(注6)

焼型で焼く菓子の中には、今はもう忘れ去られてしまったものもたくさんあります。軍艦焼にオリンピック焼、ツェッペリン焼。

その中でも歴史が古く、たい焼きよりも前から存在していたのが〇〇焼(まるまるやき)なのです。

清水晴風の『世渡風俗圖會』には、時期は不明ですが明治期の〇〇焼を作る屋台の絵が掲載されています。

『世渡風俗圖會』に掲載された〇〇焼(注4)

『世渡風俗圖會』に掲載された〇〇焼(注4)

明治19年生まれの随筆家秋山安三郎は、著書『東京っ子』で次のように〇〇焼を説明しています。

「そんな時分(注 明治中期)に「○○焼」とある看板を東京では多く見た。これは「もん・じゃ・き」と同じようなうどん粉を材料にし、中に餡を包んで焼いたもので、○○焼は活字の伏字ではなくマルマル焼である。円く、ゴルフの玉のように焼けているから丸々焼で、大体現今の"タコ焼"の型に似ている。これは同じ材料の "今川焼"に圧されて廃滅してしまった。」

つまり、丸くくぼんだ焼型に小麦粉生地を流し入れ、小豆餡を入れてくるくる回して焼く、たこ焼きのタコのかわりに小豆餡を入れて焼いたものが〇〇焼なのです。

もっとも、明治半ばに現れた〇〇焼のほうが、たこ焼きやちょぼ焼きよりも先輩。ひょっとするとこれが関西に伝わって、などということはあるのでしょうか?

秋山安三郎によるとこの〇〇焼、今川焼隆盛の影に消えていってしまったそうですが、なぜか山形県の一部に、そっくり同じ物が存在しています。

山形県鶴岡市では、花見や祭りの際に「あんだま」の屋台が出て、大人気だそうです。

この「あんだま」、明治中期の東京の〇〇焼とまったく同じ物。たこ焼きのタコのかわりに小豆餡を入れて焼いたものなのです。

ひょっとすると、東京の〇〇焼が伝わったものなのでしょうか?それとも、偶然同じ物が鶴岡で発明されたのでしょうか?

ライター紹介

近代食文化研究会
近代食文化研究会
明治時代から昭和初期までの「食文化史」を主に研究。「お好み焼きは大阪や広島ではなく、東京で誕生した?」調査期間5年以上、調査資料2500冊以上、執念の調査で紐といた『お好み焼きの歴史』が新紀元社より好評発売中。

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【出典】

(注1)風俗画報明治28年4月号「市中世渡り種」より
(注2)徳川文芸類聚第十二 国書刊行会編より 富貴地座位中巻 国立国会図書館所蔵
(注3)江戸物売図聚 三谷一馬著
(注4)世渡風俗圖會 清水晴風著 国立国会図書館所蔵
(注5)明治の宵 藤浦富太郎著
(注6)尾崎紅葉全集第三巻 春陽堂より 紅白毒饅頭 国立国会図書館所蔵

*画像の引用に関する責任は、Retty株式会社に存在します

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