【第5回】日清戦争とたい焼き
こんにちは。近代食文化研究会です。
たい焼きが誕生した歴史的背景について、文献から紐とく連載「たい焼き誕生史」の第5回となります。
【第1回はこちら】たい焼きにはたくさんの兄弟がいた
【第2回はこちら】200年前、江戸時代の「たい焼き」の姿
【第3回はこちら】たい焼きが「3次元化」した歴史的理由
【第4回はこちら】今川焼とたい焼きの関係性
唐突ですが、ベーゴマという独楽(こま)をご存知でしょうか?
そんなの常識!という人も多いかと思いますが、ベーゴマを知らない若い人もいるので、一応説明させてください。
ベーゴマというのは鉄製の小さなコマです。大正時代、駄菓子屋にこの鉄製のベーゴマが現れ(注1)、戦後の高度成長時代ぐらいまではベーゴマ遊びといえば、男の子に人気の遊びでした。
昔は駄菓子屋に行くと普通に売っていたものですが、現在では下火になり、ベーゴマを生産しているのは日三鋳造所様のみとなっています。
なぜたい焼きとベーゴマが関係あるのか。それは、たい焼きの「焼きごて」もベーゴマも、鉄の鋳物でできているからです。ベーゴマの歴史とたい焼きの歴史には、共通する部分があるのです。
鉄の鋳物とは、中空になった型に溶けた鉄を流し込んで作った、鉄製品のことです。
江戸時代の鋳物製品は、高価で貴重なものでした。その代表例が、鍋や釜です。
江戸時代の人は、高価な鍋や釜を大事に扱いました。擦り切れて穴があくまで使い、穴があくと鋳掛屋という業者に頼んで、修理してまた使いました。
鍋釜といえば貧乏人が質屋に入れる質草の代表例でしたし、長屋の連中が火事のときに背負って逃げるのも、貴重な財産である鍋釜でした。
その高価な鉄の鋳物が、大正時代にはベーゴマ、つまり子供が小遣いで買うおもちゃになるほどに、安くなったわけです。
「粉もの文化」と日清戦争の意外な関係性
鉄の鋳物はなぜ、安くなっていったのか。その背景には、明治維新以降の欧米の先端技術の導入がありました。
日三鋳造所様が立地する埼玉県川口市は、鋳物産業が盛んな都市です。この川口市を舞台とした映画に、吉永小百合主演の『キューポラのある街』があります。
キューポラとは、鋳物用に鉄を溶かす装置(溶解炉)のことです。『キューポラのある街』の頃の川口市には、このキューポラの先端が屋根から突き出ている鋳物工場がたくさんありました。
名前から分かるとおり、キューポラは明治維新以降に欧米から導入された装置です。
それまでは、刀鍛冶や映画『もののけ姫』のように、人力でふいごを吹いて空気を送り込んで鉄を溶かしていましたが、キューポラでは電気モーターで空気を送り込むようになります。
燃料も、それまでの高価な木炭から安価なコークスへとかわりました。
他にも生型法への転換、タタラ銑から高炉銑への転換など、進んだ欧米技術の導入によって鋳物産業は発展し、より多くより安く鋳物製品を生産できるようになっていきました。
そして明治時代の鋳物産業の発展を決定づけたのが、日清日露の両戦争です。
戦争によって生まれた巨大な需要が、日本の鉱工業を発展させました。鋳物産業も例外ではありません。川口市のキューポラも、戦争中はフル稼働していたことでしょう。
ところが、戦争が終わると、一気に需要は落ち込みます。
需要が少なくなっても、生産設備を遊ばせておくわけにはいきません。そこで鋳物会社が目をつけたのが、屋台の香具師(やし)だったのではないかと思います。
後にトリビアのコーナーで説明するように、当時の屋台は今とは比較にならないぐらいの一大産業でした。屋台で生計を立てる香具師は、東京だけで7000人もいたのです。
日清戦争の終了にともない軍需が落ち込んだ鋳物工場が、民需に転換するにあたって、屋台の焼き菓子に注目した。そして、屋台商人でも手の届く、リーズナブルな値段で様々な焼きごてを提供した。
明治30年代にたい焼き、人形焼などの様々な焼き菓子が次々と生まれたのは、明治時代になって安く鉄の鋳物製品を提供できるようになったことと、日清戦争の終戦に伴う鋳物工場の民需への転換が背景にあったのではないかと、私は考えています。
同じように、大正時代にベーゴマが現れた理由も、大正7年に終結した第一次世界大戦の影響があったのではないかと思います。
さて、こうして江戸時代から続く鯛や亀などの文字焼が、明治30年代に鉄の鋳物製品、焼きごてによって製造されるようになりました。
そうなると、困ったのが文字焼職人です。
それまでは、熟練の技によってひとつひとつ作っていた鯛や亀が、焼きごての登場により、素人がちょっと練習しただけで作れるようになったのです。
安く、早く、大量に鯛や亀の焼き菓子を作ることができる焼きごての登場によって、文字焼職人は失業の危機にさらされました。
そして彼らは明治40年代以降、文字焼をあきらめ、同じく鉄板で小麦粉生地を焼く商売、お好み焼き屋へと転業していきました。
この続きは拙著『お好み焼きの物語』を参照してください。
【トリビア】田舎に比べて都会はお祭り頻度が十数倍
唐突ですが、「縁日」をご存知でしょうか?
そんなの常識!という人も多いかと思いますが、縁日を知らない若い人もいるので、一応説明させてください。
縁日は寺や神社のお祭りです。お祭りと違うところは、お祭りが年に1回、多くても数回なのに対し、縁日は月に3回あることです。
例えば、東京の巣鴨にあるとげぬき地蔵の縁日は、4日、14日、24日の月3回行われています。
今では縁日というのも珍しくなりましたが、かつての東京や大阪などの都市部では盛んに行われていました。
田舎から上京した人は、驚いたでしょうね。田舎では年に何回かしかないお祭りが、東京や大阪では月に3回、つまり十数倍の頻度で行われているわけですから。
そして、日清日露戦争のあたりから、田舎から都会に上京する人の数が増えていきます。
産業革命により産業構造が変化すると、農林水産業から第二次・第三次産業へと人口のシフトが起こり、田舎から都会へと人口が移動するのです。
東京都の人口推計(注2)によると、日清戦争前の明治26年に約135万人だった東京府の人口は15年後、日露戦争後の明治40年には約251万人と急速に増加します。
田舎の人が、祭りの頻度が十数倍の都会に集団移住するわけですから、祭りで屋台を出す香具師の数も、急速に膨れ上がるわけです。
『平民新聞』明治37年1月3日によると、縁日で商売する人は東京中に7000人あまりいたそうです。(注3)
東京で7000人ですから、全国の香具師の人数を合計すれば、1万人をくだらなかったと思います。そしてその香具師の数は、人口が都会に移動するにつれ、どんどん増えていったのです。
香具師が1万人いたとしましょう。そのうち数%がたい焼き屋台を営むとすると、全国では数百の数になります。
その屋台の各々で、たい焼きの焼きごてを数本購入したとすると、結構バカにならない数の焼きごて需要が生まれることとなります。
今よりも大きかった戦前の縁日市場。鋳物工場にとって、それは見逃せない市場だったんです。
ライター紹介
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【出典】
(注1)明治43年浅草生まれの金属学者・桶谷繁雄が、大正時代の浅草の駄菓子屋にベーゴマがあったと証言しています(雑誌あまカラ1955年11月号)
(注2)東京都の推計による。www.toukei.metro.tokyo.jp/jugoki/2011/ju11qc0900.xls
(注3)明治東京逸聞史2 森銑三著
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